HISTORICAL PERSON · 872年没

藤原良房

平安時代前期の公卿で、皇族以外で初めて摂政に就いた。嵯峨天皇の皇女と結婚し、承和の変を経て朝廷での影響力を強め、外孫の惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に擁立して、藤原北家全盛の礎を築いた。

生涯
872年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原良房は、延暦23年(804年)に生まれ、貞観14年(872年)に没した平安時代前期の公卿である。藤原北家の左大臣・藤原冬嗣の次男で、最終的な官位は従一位・摂政太政大臣、没後に正一位を贈られた。皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就き、子孫が相次いで摂関となる藤原北家全盛の礎を築いた人物である。

弘仁14年(823年)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫と結婚した。潔姫はすでに臣籍降下していたため禁制の対象外ではあったが、皇女が臣下に嫁ぐのは前代未聞であり、嵯峨天皇が良房の気高く雅やかな振る舞いを気に入って特別に勅したともいう。兄の長良を差し置いて選ばれたのも、個人の資質の差によると考えられている。妹の順子は皇太子正良親王(後の仁明天皇)の妃で、良房も春宮亮を務めるなど親しい間柄にあった。仁明天皇の即位後は嵯峨上皇の支援を受けて急速に昇進し、承和元年(834年)に参議となって公卿に列し、翌年には上席の参議7名を超えて従三位・権中納言に進んだ。

承和9年(842年)、嵯峨上皇が重病となると、良房は右近衛大将を兼ねて武力を掌握した。上皇の死去の後、阿保親王の密告を受けた皇太后・橘嘉智子から春宮坊の動きを知らされ、恒貞親王は廃太子となって道康親王が立太子された。これが承和の変である。良房は皇太子の外伯父となり大納言に昇進して、朝廷での影響力を一挙に強めた。ただし良房を単独の首謀者とする通説には、当時中納言にすぎなかった良房に皇太子を廃立する力はないとの批判もあり、橘嘉智子と利害の一致した政治勢力の一員だったとも指摘される。承和15年(848年)に右大臣となり、ほぼ独裁の体制を築いた。

嘉祥3年(850年)に道康親王が文徳天皇として即位すると、良房の娘・明子が惟仁親王を生んだ。文徳天皇は第一皇子の惟喬親王を愛したとされるが、同年11月に惟仁親王が立太子した。3人の兄を越えた立太子は「三超の童謡」で風刺されたという。斉衡4年(857年)には太政大臣に叙任され、道鏡以来約90年ぶりの就任となった。天安2年(858年)、外孫の惟仁親王が9歳で即位して清和天皇となり、良房は幼帝を後見した。清和天皇は幼少期を良房の邸宅で育てられ、良房を終始篤く信任したという。即位の翌月には十陵四墓が定められ、貞観2年(860年)には宇佐から八幡神を勧請して石清水八幡宮が創祀された。いずれも幼帝の権威付けを意識した施策と想定されている。貞観5年(863年)には神泉苑で朝廷主催として史上初の御霊会が開かれ、政争に敗れて不慮の死を遂げた早良親王ら6人の霊を慰めて疫病を鎮めようとした。貞観6年(864年)冬には良房が大病を患って政務を退いたとみられ、翌年秋までに回復して復帰している。

貞観8年(866年)閏3月に応天門が焼失し、右大臣・藤原良相と大納言・伴善男が左大臣・源信に嫌疑をかけた。良房が清和天皇に奏聞したことで源信の嫌疑は晴れた。のち大宅鷹取が伴善男を放火犯として告発し、訊問の最中に良房は摂政の詔を受けた。これが人臣最初の摂政である。伴善男は失脚し、良相も影響力を失った。晩年の良房は法制と修史に力を注ぎ、『貞観格式』の公布や『続日本後紀』の完成に関わった。貞観13年(871年)に准三宮を宣下されたが、翌年に流行していた咳逆病で重症となり、9月2日に69歳で没した。没後に正一位を追贈され、忠仁公と諡された。

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