伝記
アルフォンス・ド・ラマルティーヌは、1790年10月21日にフランス王国のマコンの貴族の家に生まれ、1869年2月28日にパリで没した詩人・著作家・政治家である。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えた。2月革命の前後には政治家としても活躍した。父はピエール・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ、母はアリクス・デ・ロワである。最初の10年間を過ごしたブルゴーニュ南部のミリー村での自然や姉妹、母、そして近隣の司祭デュモン師から受けた信仰心の影響が大きかったとされる。のちにリヨンやベレーの学校で学び、シャトーブリアンやウェルギリウスを読んだ。ミリーに戻るとオシアンの詩に刺激されて詩を書き始め、恋愛沙汰で両親を心配させたのち、1811年から翌年にかけてイタリアを旅した。そこで出会ったナポリの娘が、のちの『グラツィエッラ』の着想になったとされる。1814年には国王の護衛として一時軍に籍を置いたが、百日天下の際にはスイスへ避難し、1815年に辞めた。のちに外交官となり、1825年から1828年までイタリアに駐在した。
転機は、エクス=レ=バンで湯治をしていたときの、人妻ジュリー・シャルルとの出会いだった。情熱的な恋は、ジュリーがパリで亡くなるという悲劇に終わり、それに触発されて詩を書いて、1820年に『瞑想詩集』を世に出すと一躍注目を集めた。これは文学的にも近代フランス抒情詩のはじまりとして高く評価されている。同じ年に、イギリス人の両親をもつエリザ・バーチと結婚したが、2人の子は幼いうちに亡くなった。続いて『新瞑想詩集』(1823年)、『詩的宗教的諧調詩集』(1830年)などを発表し、1829年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。
1830年の7月革命を契機に政治活動を始め、1833年には代議士に当選した。これに先立つ最初の挑戦は落選に終わり、その後に東方へ旅してギリシャやレバノン、キリスト教の聖地を訪れ、この旅の途中で娘ジュリアを失っている。理想主義的で、王党派と社会主義派の中間にあたる穏健な考えを持っていたとされる。この間も詩のほか小説や『東洋紀行』(1835年)、歴史書『ジロンド党史』(1847年)などを著したが、1840年代になると政治活動に力を入れて詩作を絶った。1848年の2月革命では臨時政府の外務大臣となり、共和国を宣言して、植民地の奴隷制廃止の布告にも署名したとされる。同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世)と争って大敗し、1851年のクーデターで政界を引退した。
晩年は不遇で、莫大な負債のために1860年にはミリーの領地を手放し、返済のために大量の作品を書き続けたが、文学的には評価されていない。最後の大きな詩は1857年の「葡萄の木と家」である。抒情と調和のとれた表現が詩の特質で、愛した女性に触発された作品に、自然と死と愛のテーマが織り込まれている。後の世代には、フローベールが「肺病やみの抒情」と評するなど、やや厳しく評価されることもあったが、なおフランスを代表する大詩人の一人と見なされている。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・グレアム (1869年没)
- エクトル・ベルリオーズ (1869年没)
- アントニー・ブレンターノ (1869年没)
- Juraj Haulik (1869年没)
- レオポルド・ド・ベルジック (1869年没)
同じ地域に関係する人物
- イサーク・ティチング (1812年没)
- クロード・ポンピドゥー (2007年没)
- アントワーヌ・ガラン (1715年没)
- アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ (1749年没)
- ジョゼフ・ピトン・ド・トゥルヌフォール (1708年没)