HISTORICAL PERSON · 1868年没

ジョアキーノ・ロッシーニ

イタリアの作曲家。『セビリアの理髪師』『チェネレントラ』などのオペラで知られ、フランスでは『ウィリアム・テル』を書いた。美食家でもあった。

生涯
1868年没
死亡地
フランス共和国(パリ / パッシー)
出生地
イタリア共和国(ペーザロ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニは、1792年2月29日、アドリア海に面したペーザロの音楽一家に生まれたイタリアの作曲家である。父ジュゼッペは食肉の検査官をしながらトランペットを吹き、母アンナはパン屋の娘で歌手だった。両親は早くから音楽教育を施し、六歳のときには父の楽団でトライアングルを演奏したと言われる。父はフランスに好意を抱き、ナポレオン軍がイタリア北部に到達したことを喜んだが、1796年にオーストリアが政権に復帰すると投獄された。母は歌手として生計を立てるため、ロッシーニを連れてボローニャへ移り、のちに父と再会した。この間ロッシーニは祖母のもとに送られ、手におえない子供と言われた。1800年にはボローニャ音楽学校で学び始めた。

十代の終わりに作曲家としての活動を始め、1810年にフィレンツェで一幕の笑劇『結婚手形』を初演してデビューした。1812年にはスカラ座でブッファ『試金石』が初のヒットとなり、兵役を免除されたという。1813年の『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』は初演後にたちまち大評判となり、名声はヨーロッパ中に広がった。1815年からはナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督として、オペラ・セリアの傑作を次々に書いた。1816年の『セビリアの理髪師』で名声は不動のものとなり、これはわずか三週間で作曲されたと伝えられる。1822年に歌手のイザベラ・コルブランと結婚し、同じ年にウィーンへ『ゼルミーラ』の上演のため訪れて熱烈な歓迎を受けた。訪問を受けたベートーヴェンは『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」と述べたという。

1823年の『セミラーミデ』がイタリアでの最後のオペラとなり、同年パリを訪れて大歓迎を受けた。スタンダールは『ロッシーニ伝』で「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。1824年にパリのイタリア座の音楽監督に就任し、1825年にはシャルル10世の即位を祝って『ランスへの旅』を作曲して、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得た。1829年、三十七歳で大作『ウィリアム・テル』を発表すると、オペラの筆を折った。生涯に三十九のオペラを書いたが、実質の作曲期間は二十年に満たない。以後は『スターバト・マーテル』などの宗教曲やサロン向けの歌曲、ピアノ曲、室内楽を書いた。1830年の七月革命でも新政府と交渉し、年金を確保した。

1836年にパリを去ってボローニャに住み、1837年にミラノへ移って、自宅のサロンで毎週金曜日に「音楽の夜会」を開いた。1845年に妻イザベラが亡くなり、翌1846年に高級娼婦と再婚している。1855年に治療のためパリへ戻ると、回復後は毎週土曜日に夜会を催し、グノー、サン=サーンス、ヴェルディ、リストらが集った。若い頃から料理を好み、引退後は創作にも熱意を傾け、フランス料理の「ロッシーニ風」は彼の名にちなむ。1864年の私的演奏会で「小荘厳ミサ曲」を初演し、1868年11月13日に直腸癌の手術後の丹毒で亡くなった。現在はイタリアのサンタ・クローチェ教会に眠る。死後は『セビリアの理髪師』などのほかは忘れられたが、1960年代終わりからのクリティカル・エディションの出版を契機に、1970年代以降に再評価が進んだ。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物