伝記
オロンテス1世は、アケメネス朝ペルシアの軍人で、紀元前5世紀末から4世紀前半にかけてのアルメニア太守である。古代ペルシア語名は「アルヴァンタ」と推定され、アヴェスター語の「俊敏で勇猛な」を意味する語に関係するという。小アジアで起きた大太守の反乱を率いて失敗したことで知られ、没年は紀元前344年とされる。
父はバクトリアの高位の貴族アルタシュラスで、「王の目」という高官の地位にあった。この父は、紀元前401年のクナクサの戦いに加わった同名の貴族と同一人物ではないかとも考えられており、オロンテスは「バクトリア人オロンテス」と呼ばれることもある。アケメネス朝で高い官職に就いたことが知られるバクトリア人は、この父子だけである。母方の系譜は、ダレイオス大王の六人の仲間の一人であるペルシアの大貴族ヒュダルネスに遡るとされ、アルメニア太守領はヒュダルネスの子孫が代々治めた半ば世襲の領地だったらしい。母方を通じて、同じ名の二人のペルシア貴族とも縁戚だった可能性がある。一人は小キュロスを見限って処刑され、もう一人はアルタクセルクセス2世の母パリュサティスと不仲で、その意向により処刑されたという。ギリシアの著述家プルタルコスは、オロンテスの容貌が神話の英雄アルクマイオンに似ていたと記している。
オロンテスの名が記録に現れるのは紀元前401年で、アルメニア太守として、クナクサで敗れて退却するギリシア人傭兵一万人を追撃した。同じ年、アルタクセルクセス2世の娘ロドグネと結婚した。紀元前386年から385年ごろ、サラミス王エウアゴラスに対するキプロス遠征で、陸軍を率いる共同司令官に任じられた。海軍を率いたのはイオニア太守ティリバゾスで、クナクサの戦いに加わった人物であり、アルメニア西部の副総督を紀元前395年まで務めていたため、オロンテスを若いころから知っていたという。当初、遠征は順調で、エウアゴラスは和平を申し出た。しかしティリバゾスとの交渉が決裂すると、オロンテスはティリバゾスが戦争を故意に長引かせ、独立を企てていると訴えた。この結果ティリバゾスは解任されて投獄され、ペルシア軍はかえって弱体化し、オロンテスは紀元前380年にエウアゴラスと和平を結ぶほかなかった。王はこの結末を満足のいくものとは見なさず、オロンテスは王の不興を買った。
オロンテスが再び記録に現れるのは紀元前362年から361年で、ミュシア地方の副総督として、反乱を起こした小アジアの太守たちの指導者になっていた。しかし反乱は短命に終わった。オロンテスは同盟者を裏切り、アルタクセルクセス2世のもとへ立ち返ったのである。この重大な時機にそうすれば大きな褒賞を得られると考えたといわれる。軍勢と資金を握っていたため、ほかの反乱太守も次々にそれにならい、紀元前360年から359年までに反乱は終結した。
その後、紀元前354年から353年にかけて、オロンテスは再び反乱を起こした。王から受けた褒賞に失望したためと考えられている。ペルガモンの町を奪ったが、やがてアルタクセルクセス2世の子で後継者のアルタクセルクセス3世と和解し、町を返還した。オロンテスは紀元前344年に死んだ。オロンテス朝の祖とされ、この王朝はアケメネス朝からヘレニズム時代にかけて、アルメニア、ソフェネ、コンマゲネに地歩を築いた。紀元前331年のガウガメラの戦いで、ミトレネスとともにアルメニア部隊を率いた太守オロンテス2世は、オロンテスの子か孫のどちらかとされる。