伝記
マクシミリアーノ1世は、1832年7月6日にウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれた、メキシコ皇帝である。父はフランツ・カール大公、母はバイエルン王女ゾフィーで、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたる。名は洗礼で「フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ」と命名された。母は知性と野心と強い意志の持ち主で、夫とは共通点がなかったが、この結婚は実りが多く、4人の子が育った。宮廷には、彼がナポレオンの息子ライヒシュタット公と母の婚外子だという噂があったが、歴史家によって退けられている。6歳まではガヴァネスに養育され、その後はチューターに教わった。学習時間は7歳で週33時間、17歳で週55時間に達し、歴史、法律、理科から語学、軍事、外交まで学んだ。ドイツ語に加え、ハンガリー語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語などを身につけた。陽気でカリスマがあり、周囲を魅了する性格は、物静かで内向的な兄とは対照的で、堅苦しい宮廷の環境にはなじめなかった。
1848年に革命が起きると、皇帝フェルディナント1世が退位し、兄がフランツ・ヨーゼフ1世として即位した。彼は兄の遠征に同行して各地の反乱の鎮圧に加わったが、処刑や投獄をともなう弾圧を無慈悲だと感じて恐れ、不満を広く口にしたという。1854年にオーストリア海軍の司令長官となり、22歳で少将に就任した。彼は海軍に情熱を注いで急速に昇進し、トリエステとポーラの軍港の建設を支援し、世界一周航海を企画した。フリゲート艦ノヴァラ号は、オーストリアで初めて世界一周を果たした軍艦となった。芸術に深い教養を持ち、植物学にも幼いころから関心を示した。
自由主義の意見の持ち主だったことから、1857年2月にロンバルド=ヴェネト王国の副王に任命された。同年7月27日、ブリュッセルでベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテと結婚した。夫妻に子はなく、二人は1857年から1859年までミラノで暮らしたが、兄が自由主義的な政策に怒って解任した。マクシミリアンはトリエステ近郊に隠遁し、ミラマール城を築いた。
そのころメキシコでは、フアレスら自由主義者と保守派の内戦が続き、1861年までにフアレス側が優勢となった。保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結び、フランスなどが軍事干渉を行った。1859年にメキシコの王党派と接触していたマクシミリアンは、帝位を受けるよう求められ、当初は断ったものの、シャルロッテの説得で決意を固めた。1863年10月にメキシコ帝冠を受諾した。兄は慰留したが、彼はオーストリアの皇位継承権を放棄し、皇族としての権利も失った。1864年4月に海軍少将の職を辞し、5月28日にベラクルスに上陸した。皇帝夫妻はチャプルテペク城を居城とし、皇后通り、今日のレフォルマ通りの建設を命じた。
皇帝としての最初の法律のひとつは、労働時間の制限と児童労働の禁止だったとされる。10ペソ以上の農民の借金を帳消しにし、体罰も禁じた。農地改革や信仰の自由など、自由主義政策の一部を支持して保守派を狼狽させた。しかしアメリカ合衆国を含む多くの国が彼の帝国を承認せず、共和派軍の優位は動かなかった。1867年に捕虜となり、同年6月19日に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック・シャルル・ブリュネ (1867年没)
- ゾフィー・フォン・ザクセン (1845-1867) (1867年没)
- ヨーゼフ・クリーフーバー (1867年没)
- Ira Aldridge (1867年没)
- ペーター・フォン・コルネリウス (1867年没)
同じ地域に関係する人物
- ミゲル・ミラモン (1867年没)
- サルバドル・サンチェス (1982年没)
- トマス・メヒア (1867年没)