伝記
フリードリヒ・リュッケルト(ヨーハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト)は、1788年5月16日にバイエルン北部のシュヴァインフルトで生まれたドイツの詩人・東洋学者である。父は男爵家の裁判所に勤める会計職員で、1792年に一家はウンターフランケンのオーバーラウリンゲン村に移った。後年リュッケルトは、この村での幼い日の印象を、ユーモアに満ちた詩的な風俗画として『村役人の息子の思い出』に描いている。
地元のラテン語学校を出ると、法律を学ぶため1805年にヴュルツブルク大学に入ったが、1809年までの間は専ら文献学と美学に没頭した。文献学には特に熱心で、のちに「人間が書く言葉はどんなものでも私にとっては生きている」と語ったという。1811年には短期間イェーナで大学講師を務め、ギムナージウムの教師にもなったが、やがて公の仕事から離れ、自由な学者としてヴュルツブルクに居を構えた。その後数年はヴュルツブルクや両親の家などで過ごした。この間に起こった解放戦争には強い関心を示し、フライムント・ライマーの筆名でナポレオンの占領に抗う『戦闘のソネット』などを『ドイツの詩』集に発表して、詩人としての名声を得はじめた。その後シュトゥットガルトに赴き、コッタ社の『朝刊』の学芸欄を担当して、ウーラントと交際した。1817年秋にはイタリアに旅してローマのドイツ人芸術家と交わり、のちウィーンでペルシア語を学んだ。これが彼のその後の創作に重要な影響を及ぼした。ルイーゼ・ヴィートハウスと結婚し、コーブルク近郊のノイゼスに家を構えて、晩年の大半をここで過ごした。
1826年にエルランゲン大学の東洋言語・文学の教授に招かれ、学問的研究と詩作はもっぱらオリエントに向かった。ゲーテの『西東詩集』以来ドイツ文学に感じられるようになった東洋的要素を、マカーマなど東洋文学の翻訳によってさらに推し進め、抒情詩の名手と評されるようになった。1833年には二人の子供を相次いで亡くし、この体験から詩集『亡き子をしのぶ歌』をまとめた。のちにマーラーがその一部に作曲した歌曲が知られる。プロイセンでフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位するとベルリンに招かれたが、その地になじめず、1848年にはノイゼスにひきこもって、以後も創作を続けた。この地では、自ら建てさせた「詩の隠れ家」で研究と執筆に打ち込んだという。
東方の題材による『東方の薔薇』(1822年)はゲーテに捧げられた。ルイーゼに求愛していた時期に書いた詩集『愛の春』(1844年)や、インド思想の影響を受けた格言集『ブラーマンの叡智』(1836年~1839年)によって、その名はドイツ人のあいだで急速に知られるようになり、後者は19世紀のドイツで最も読まれた本の一つになったという。『愛の春』などはシューマンをはじめ多くの作曲家によって曲がつけられた。シューベルトは『君はわが憩い』など6曲を作曲し、シューマンは歌曲集『ミルテの花』の『献呈』などを作った。ほかにクララ・シューマン、ブラームス、レーヴェ、リヒャルト・シュトラウスらも彼の詩に作曲している。稀にみる語学の天才で、70種類の言語を習得したと言われ、翻訳・教育・言語学の分野では44の言語を扱った。1866年1月31日、コーブルクで77年の生涯を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
- マッシモ・ダゼーリョ (1866年没)
- ジョン・キーブル (1866年没)
- ピョートル・プレトニョフ (1866年没)
- ジョージ・エベレスト (1866年没)
- フロリス・アドリアン・ファン・ハル (1866年没)
同じ地域に関係する人物
- フリッツ・ラスプ (1976年没)
- コンラート・パウマン (1473年没)
- ワルデマル・ボンゼルス (1952年没)
- フリードリヒ・アウグスト・フォン・カウルバッハ (1920年没)
- カール・フーゴ・シュツルンツ (2006年没)