HISTORICAL PERSON · 紀元前366没

エウリュディケ1世

マケドニア王アミュンタス3世の妃。子のアレクサンドロス2世、ペルディッカス3世、フィリッポス2世は王となり、大王の祖母にあたる。公的にも重要な役割を担った。

生涯
紀元前366没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エウリュディケ1世は、古代マケドニアの王妃で、国王アミュンタス3世の妻である。紀元前410年から407年ごろの生まれとされ、没年は紀元前366年と伝えられる。父はシラス、母イラはリュンコスの王アッラバイオスの娘であった。シラスの出自はイリュリアの首長とも、リュンコスを治めた摂政の王子ともいわれる。

アミュンタス3世は紀元前390年ごろ、若いエウリュディケを妻に迎えた。紀元前393年にイリュリア人らに敗れたあと、イリュリアとリュンコスの双方との同盟を固めるか、リュンコスをイリュリアとの伝統的な結びつきから引き離そうとする狙いがあったとみられる。その後アミュンタスは国土の一部をカルキディケ人に預けざるをえなくなり、彼らは紀元前382年までに首都ペラにまで支配を広げた。スパルタの介入で紀元前379年に首都へ復帰したが、マケドニアはスパルタに従属した。アミュンタスにはギュガイアという別の妻もいて三人の子がいたが、エウリュディケはいつしか主要な妻となった。その経緯は確かめられないものの、王妃の動きが初めてマケドニア政治の中心と結びついた点で、彼女は転機をもたらした存在である。読み書きもでき、それを覚えたのは人生の後半だったらしい。子にはアレクサンドロス2世、ペルディッカス3世、ピリッポス2世と娘エウリュノエがおり、ピリッポスの母として、アレクサンドロス大王の祖母にあたる。

その経歴には論争が多い。ローマの歴史家ユスティヌスは、エウリュディケが娘婿のアロロスのプトレマイオスと謀ってアミュンタスを殺し、プトレマイオスと再婚して王位を愛人に与えようとしたと伝える。しかし娘エウリュノエが父にこれを明かして陰謀は潰れ、アミュンタスは共通の子らのために妻を罰しなかったという。紀元前370年か369年にアミュンタスが死ぬと、長男アレクサンドロス2世が継いだ。紀元前368年、プトレマイオスは、テバイの将軍ペロピダスが仲介した和解にもかかわらず、アレクサンドロス2世を殺した。のちにペロピダスに迫られ、二人の年少の弟ペルディッカス3世とピリッポス2世の摂政となることだけを認めた。

その後エウリュディケはプトレマイオスと結婚した。長男を殺した相手と自ら望んで結ばれたとは考えにくく、残る息子たちの王位継承を守るための行動だった可能性が高いとされる。このころ王位をうかがうパウサニアスが人気を集めていた。王妃は、亡き夫の養子であるアテナイの将軍イピクラテスに、二人の息子のために王位を守るよう頼み、イピクラテスはパウサニアスを追い払った。王妃が政治や軍事に関わり、外国の助力を求めたことは、前例のない大胆な行いであった。紀元前365年にはペルディッカス3世が兄の仇としてプトレマイオスを殺して王位に就き、和平の一環としてピリッポス2世は人質としてテバイへ送られた。ペルディッカスは紀元前359年、イリュリアの支配者バルデュリスとの戦いで四千人の兵とともに戦死し、末弟のピリッポス2世が王国を掌握した。

エウリュディケは信仰にも熱心で、ウェルギナのエウクレイア崇拝の神殿の建設費を出した可能性がある。また女性市民のために、あるいはおそらくムーサたちに、教養を得た感謝として奉納を行ったとされる。王家の女性として知られるかぎり初めて積極的に政治へ働きかけ、影響力を行使した人物と位置づけられている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。