伝記
エイブラハム・リンカーンは、1809年2月12日にケンタッキー州ラルー郡のシンキング・スプリング農場の間仕切りのない丸太小屋で生まれ、第16代アメリカ合衆国大統領となった政治家、弁護士である。生年月日はチャールズ・ダーウィンと同じである。名は、先住民に殺された父方の祖父にちなむ。この祖父は、バージニア州から移り住んだケンタッキーで1786年に襲撃され、父トーマスら子供たちの見ている前で殺されたのである。母ナンシーは1806年にトーマスと結婚した。一家は飲酒やダンス、奴隷制に反対するバプテスト教会に通っていた。リンカーンが生まれるころ、トーマスは農場や家畜を持つ郡内でも裕福な部類に入っていたが、1816年に土地の権利証が偽物だったために訴訟で土地をすべて失った。
同じ1816年、7歳のリンカーンの一家は、貧困と奴隷制を避けて奴隷のいない州であるインディアナ州へ転居した。リンカーンは後に、転居は奴隷制の理由もあったが、主に土地獲得の困難さが理由だったと述べている。父が土地と訴訟で苦しむ姿を見たことが、成人して測量術を覚え、弁護士になる動機の一つになった可能性があるといわれる。1818年、9歳のときに母が毒草を食べた牛の乳によるミルク病で34歳の生涯を閉じ、母の死後は2歳年上の姉サラが面倒を見たが、サラも彼が19歳のときに出産で亡くなった。翌年、父は3人の子を持つ未亡人サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。継母との関係は良く、彼は継母を「お母さん」と呼び、本も与えてもらったという。幼いころは辺境の重労働を好まず、怠け者と見る人もいたが、成長すると雑用を進んでこなし、柵の横木を作るときには斧使いの達人になった。正式な教育は巡回教師からの1年分ほどで、あとはほぼ独学であり、読書を熱心にした。無学な父とは次第に疎遠になった。
1830年、ミルク病の流行を恐れた一家は自由州のイリノイ州へ移った。1831年、22歳の彼は、よりよい生活を求めて独り立ちを決め、サンガモン郡のニューセイラムに住み着いた。土地の荒くれ者の首領と雑貨屋でレスリングの試合をして引き分け、腕力と大胆さで知られるようになった。実業家に雇われ、平底船で品物をニューオーリンズまで運んだ際には、奴隷の売買を目にした可能性があるといわれる。1832年には共同経営者と借金で雑貨屋を買ったが、事業は難しく、持ち分を手放した。同年に始まったブラック・ホーク戦争でイリノイ州民兵隊に大尉として参加したが、戦うことなく政治活動のため三か月で除隊した。リンカーンは自分のことをあまり語らなかったが、大統領指名のころに急いで書いた自伝風の素描が「自叙伝」と呼ばれる。
その後、弁護士、イリノイ州議員、下院議員を経て、初の共和党出身の大統領に就任した。奴隷制の拡張に反対する彼の当選は南部諸州の反発を招き、国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦を指揮して勝利へ導いた。1863年11月のゲティスバーグ国立戦没者墓地の開会式での演説では、戦没者を追悼し、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないと決意を述べた。この演説は民主主義の基礎を示したものとして世界的に有名である。一方、先住民に対しては当時の政府の路線を引き継ぎ、戦争中もインディアン戦争は続いたが、和平を求める声を受けて、法にのっとった恩赦も行ったとされる。リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、ワシントンのフォード劇場で観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れ、アメリカ史上初めて暗殺された大統領となった。
同じ年に亡くなった人物
- カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン (1865年没)
- ウィリアム・ヴィンセント・ウォレス (1865年没)
- Clementina Maude, Viscountess Hawarden (1865年没)
- マドレーヌ・ソフィー・バラ (1865年没)
- ミッシェル・クロ (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・シャーマン (政治家) (1900年没)
- カーター・グラス (1946年没)
- フランク・ノックス (1944年没)
- ハーマン・ホレリス (1929年没)
- ジョン・N・ミッチェル (1988年没)