伝記
ロバート・フィッツロイは、1805年7月5日にイングランドのサフォーク州アンプトンで生まれたイギリスの海軍軍人である。ダーウィンが乗った二度目のビーグル号航海の艦長として知られ、天気予報の実用化を試みた気象学者、優れた測量学者であり、ニュージーランド総督も務めた。父チャールズは陸軍軍人で国会議員、祖父は首相を務めた第3代グラフトン公、父方の祖先は国王チャールズ2世にさかのぼる。母は初代ロンドンデリー侯爵の娘で、内務大臣を務めたカスルリー子爵の妹であった。4歳からは、ノーサンプトンシャーのフィッツロイ家の邸宅で育てられた。
1818年に12歳でポーツマスの王立海軍学校に入り、翌年に海軍へ入隊し、14歳で志願して軍艦に乗り組んだ。1820年に南アフリカへ向かい、その航海中にミッドシップマンに昇進した。1824年9月には、史上初めて満点で試験を通過して海軍中尉に昇進したという。その後、ガンジス号に乗っていたときに、南米南端ティエラ・デル・フエゴの測量に当たっていたビーグル号の艦長がひどい鬱で拳銃自殺し、1828年12月にリオデジャネイロで臨時の艦長に任じられた。1830年11月の帰還で、測量士、艦長としての名声を得た。このとき、陸上で数人の部下のボートを持ち去ったフエゴ島民を追い、人質に連れてきた4人を、英語やキリスト教、道具の使い方を教えて「文明化」し、宣教師として帰そうと考えた。彼らはイングランドで国王に謁見できるほどになった。
1831年に総選挙へ出馬して敗れたが、友人の海軍本部水路調査官ボーフォートと、叔父のグラフトン公の働きかけで、同年6月にビーグル号の艦長に再任された。孤独で重圧の大きい艦長職を重く受け止め、前任者や叔父のカスルリー子爵が自殺していることを案じて、話し相手になる紳士の同乗者を探すようボーフォートに頼み、これがチャールズ・ダーウィンに決まった。出発前に彼はダーウィンにライエルの『地質学原理』第1巻を贈っている。二人は良い関係を保ったが、フィッツロイは激しい気性を爆発させて士官から「ホットコーヒー」とあだ名され、ダーウィンは後に「狂気の一歩手前」と回想した。奴隷制をめぐる口論で食卓から追われたこともあったが、フィッツロイは後に率直に謝った。艦は5年の航海でガラパゴス、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカを巡った。1836年10月に帰還すると、長く婚約していた女性と結婚し、1839年には3巻本の航海記録を刊行した。
1843年12月にニュージーランド総督に着任したが、入植者の土地要求とマオリの保護の板挟みになり、財政難にも陥って、帰国を命じられた。1848年に帰国後は、ウーリッジ造船所の本部長を経て、1851年にダーウィンらの推薦で王立協会の会員となった。商務省の気象局長となり、気圧計を設計して各港に配った。1859年のロイヤルチャーター号を沈めた大嵐を機に暴風警報の発表を始め、1861年8月には気象予報も発表した。予測と区別するため「フォアキャスト」という語を作り、1863年に『気象の本』を著した。当時のイギリス科学界や政府には、予報の公表が科学の信頼を損なうとして反発もあった。彼は予報を科学的な予測ではなく、民衆の役に立つ実用的な技術と考えていたという。彼の死後には、統計学者ゴルトンを委員長とする調査委員会が組織された。1865年4月30日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Carlo Vittadini (1865年没)
- マリー=アンヌ・リベール (1865年没)
- シャルル・ド・モルニー (1865年没)
- Mikhail Mikhailov (1865年没)
- ジョゼフ・デジャック (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- トーマス・ガーティン (1802年没)
- トマス・オーヴァーベリー (1613年没)
- ジョージェット・ヘイヤー (1974年没)
- トマス・シーモア (1549年没)
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