HISTORICAL PERSON · 1865年没

ウィリアム・ローワン・ハミルトン

アイルランドの数学者・物理学者・天文学者。16歳でラプラスの『天体力学』の誤りを見つけ、1843年に四元数を発見した。変分原理でも知られ、解析力学と線型代数学の発展に寄与した。

生涯
1865年没
死亡地
アイルランド(ダブリン県 / ダブリン)
出生地
アイルランド(ダブリン)
出典
世界地図
アイルランド(ダブリン県)

伝記

ウィリアム・ローワン・ハミルトンは、1805年8月4日にダブリンで生まれたアイルランドの数学者、物理学者、天文学者である。9人きょうだいの4番目で、父アーチボルドは法律家、母はサラといい、一家はダブリンのドミニク通りに住んでいた。3歳のときにトリニティ・カレッジの出身で学校を営んでいた叔父ジェームズのもとに預けられ、叔父は言語学者でもあったため、幼いころから語学を仕込まれた。7歳でヘブライ語がかなり進み、13歳になるまでに、ヨーロッパの古典語・現代語のほか、ペルシア語、アラビア語、サンスクリットなど、年齢と同じほどの数の言語に通じるようになったと伝えられる。ただし、実際の理解は初歩的だったと見る歴史家もいる。1813年9月、ダブリンで暗算の神童として興行していた米国のジーラ・コルバーンと計算を競って敗れ、それを機に語学の時間を減らし、数学に力を注ぐようになったという。

本格的に数学を始めたのは15歳ごろで、当時の最先端であったラグランジュやラプラスの書物を学び、16歳でラプラスの『天体力学』の誤りを見つけて専門家を驚かせたとされる。18歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学し、古典と数学の両方を修めて、1827年に学士となった。学生の身でありながら、天文学教授とアイルランド王室天文官に推されてダンシンク天文台に住み、生涯そこと縁が続いた。前任の天文官ブリンクリーは、彼が18歳のとき、この若者は「なるだろう」ではなく、すでに当代随一の数学者だ、と評したという。才気に溢れて快活だった彼は社交界でも人気を集め、詩人ワーズワースは彼を、会った中で最も魅力的な人物の一人に挙げた。

私生活では、学生時代に友人の妹へ求婚して断られ、病んで自殺を考えるほど落ち込んだ。1831年にも詩人の妹に断られ、1833年にヘレン・ベイリーと結婚して、2男1女をもうけた。妻は信仰心が篤く内気で、慢性の病を抱えていたため、結婚生活は穏やかではなかったと推測されている。前半生の業績には、光学への数学の応用や、数学理論による自然現象の予言、解析力学の創始、代数系の基礎づけがあり、「ニュートンの再来」と呼ばれた。ハミルトンの変分原理や、量子力学で重要なハミルトニアンの名も彼に由来する。

複素数を三次以上に一般化することに心血を注いだ彼は、十年ほどを経た1843年10月16日、ダブリンの運河にかかる橋を妻と歩いていたときに、四元数の構造を突然悟った。その場で橋の石に小刀で式を刻んだが、その刻みは今は残っていない。乗算が交換できない四元数は斬新な着想で、のちの代数学に大きな影響を与えた。以後約20年を四元数の研究に費やし、700頁を超える『四元数講義』を著したが、ド・モルガンやハーシェルらには難解と評された。『四元数の基礎』も長すぎて生前には出版されなかった。晩年の研究は大勢から顧みられず、見直されるまでに100年ほどを要したとされる。晩年は痛風に苦しみ、1865年9月2日に没した。遺体が見つかった部屋は、数式を書きつけた二百数十冊のノートで埋め尽くされていたという。墓はダブリンのマウント・ジェローム墓地にある。今日ではアイルランドを代表する科学者の一人として評価され、メイヌース大学には応用数学の研究にあたるハミルトン研究所が設けられている。

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