伝記
フェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・ラッサールは、1825年4月11日にプロイセン領シレジアのブレスラウで、裕福な改革派ユダヤ教徒の絹商人ハイマン・ラッサールの第2子として生まれた。のちにドイツ社会民主党の母体となる全ドイツ労働者同盟を創設した人物である。シレジアでは貧しいユダヤ人の多くがゲットーに押し込められ、蔑視が強かった。ラッサールはゲットーの外の裕福な家の出身だったが、激しい差別を間近に見て育った。幼いころから神童として注目され、父は「未来のユダヤ人解放者」として将来を期待した。1840年にライプツィヒの商業学校に入ったものの商業には関心を持てず、ゲーテやシラー、ハイネ、ベルネらを読みふけり、とくにハイネとベルネから民主主義と革命主義の最初の影響を受けた。1841年にブレスラウのギムナジウムへ移り、1842年にアビトゥーアに合格した。
1843年10月にブレスラウ大学に入学し、文献学、ついで哲学、とくにヘーゲル哲学を学んだ。学生団体で頭角を現し、ヘーゲル左派のフォイエルバッハ准教授が追放された事件では抵抗運動の中心となって雄弁家として知られるようになったが、大学から危険分子とみなされ、一時謹慎処分を受けた。1844年4月にベルリン大学へ移り、サン=シモンやフーリエ、ルイ・ブランらの社会主義の影響も受けた。卒業論文ではヘラクレイトスを研究し、1845年秋から翌年1月にはパリでプルードンやハイネと会った。この滞在中に姓をフランス風の綴りに改めている。
ベルリンに戻ると、ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーと知り合い、放蕩者の夫との離婚を望む彼女のためにこれを封建主義の横暴との闘いとみなし、1846年から1854年まで訴訟に尽力し、ヘラクレイトスの研究は10年近く中断した。1848年2月には、伯爵の背信行為を証明する文書の入った小箱を盗み出したとして窃盗容疑で逮捕された。この訴訟が反封建主義の闘争の一つとしてライン地方の革命派に注目され、一躍有名になった。1848年革命ではマルクスらと連携したが、革命は失敗に終わり、官憲に逮捕されて禁固6か月の刑を受けた。1854年に訴訟に勝利して伯爵夫人が巨額の資金を得ると、1857年にベルリンへ移り、『ヘラクレイトスの哲学』を出版して学者として名声を博した。一方、金銭問題やイタリア統一戦争の評価をめぐって、イギリスに亡命していたマルクスとの亀裂が深まった。
1861年に『既得権の体系』を出し、同年11月にイタリアでガリバルディと会って、学問より直接の政治運動を重んじるようになった。労働者向けの演説で社会政策の必要を訴え、1862年に『労働者綱領』を出版したが、官憲に危険視されて罰金刑を受けた。1863年5月に全ドイツ労働者同盟を結成して指導者となり、普通選挙を旗印とする独自の労働運動を唱えた。この頃から宰相ビスマルクと秘密裏に会談するようになったともされる。1864年8月31日、恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。ドイツ社民党は1959年に国民政党への転換が宣言されるまで、マルクスを「理論上の父」、ラッサールを「運動上の父」としてきた。
同じ年に亡くなった人物
- カール・クリスチャン・ラヴン (1864年没)
- ゴンサウヴェス・ジアス (1864年没)
- プリンセス・カラブー (1864年没)
- ルドルフ・トレヴィラーヌス (1864年没)
- 洪仁玕 (1864年没)
同じ地域に関係する人物
- オラス=ベネディクト・ド・ソシュール (1799年没)
- ジョン・イサーク・ブリケ (1931年没)
- ロドルフ・クレゼール (1831年没)
- Giovanni Diodati (1649年没)
- マンスール・オジェ (2021年没)