伝記
ナサニエル・ホーソーンは、1804年7月4日にマサチューセッツ州セイラムで生まれ、1864年5月19日に没したアメリカ合衆国の小説家である。もとの姓の綴りには「w」がなく、これを加えたのは大学を出て間もない二十代前半と考えられ、悪名高い先祖から距離を置くためだったとされる。父方の初代の祖先ウィリアム・ホーソーンはクエーカー教徒の迫害に関与し、判事として厳しい判決で知られた。その子ジョン・ホーソーンはセイラム魔女裁判の判事の一人である。母方の祖先ニコラス・マニングの姉たちも近親相姦の嫌疑をかけられて迫害された。こうした過去を背負っているため、善と悪や罪を扱う宗教的な内容の作品が多いといわれる。
父の船長ナサニエル・ホーソーンは、1808年にオランダ領スリナムで黄熱病により亡くなった。ホーソーンは4歳で父を失い、母と姉、妹とともにセイラムの母方のマニング家に身を寄せ、約10年を過ごした。1813年11月に球技で足を打ち、1年近く跛行し寝込んだが、医師は異常を見つけられなかったという。1816年の夏からは、叔父たちが建てたメイン州レイモンドの家で暮らし、この地を後年なつかしく振り返っている。叔父ロバート・マニングは本人の抗議にもかかわらず大学進学を強く求め、その援助で1821年にボウディン大学に入った。進学の途中でのちの大統領フランクリン・ピアースと知り合い、親友となった。同じ大学には、のちの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローもいた。1825年に卒業すると、隠棲して小説の執筆に専念し、1828年に自費で匿名の小説『ファンショー』を出したが、のちに自ら出版を抑えようとした。
短編を雑誌に発表し、1837年にまとめて『トワイス・トールド・テールズ』として刊行した。同じ年には、サミュエル・グッドリッチの依頼を受け、2歳上の姉とともにピーター・パーレーの名の『万国史』を執筆している。翌年ソファイア・ピーボディと婚約し、1839年に生活が苦しいことから、ボストンの税関に就職したが、翌々年に退職した。1841年には超絶主義者たちの生活共同体ブルック・ファームに参加し、1842年に結婚してコンコードに移り、エマソンと交際した。再び文学に専念したものの、1846年にセイラムの税関に就職し、1849年に退職した。
1850年の『緋文字』で注目を集め、続いて『七破風の屋敷』などを書いた。当時のアメリカでは市場経済が発達し、文学が「商品」の色合いを強めており、芸術としての作家という考えを持つホーソーンは、大衆の評判が重んじられるこのギャップに苦しんだとされる。ハーマン・メルヴィルは「ホーソーンとその苔」を発表し、彼を最も優れたアメリカ人作家に推した。大学時代の友人ピアースが1852年に大統領選挙に立候補した際に候補者略歴を執筆し、ピアースが勝つとリヴァプール領事に任命された。1857年に退任してイタリアなどに滞在し、1860年に『大理石の牧神』を発表した。同年に帰国したが、南北戦争の混乱や病気のためその後の作品は少なく、1864年に旅行中のニューハンプシャー州プリマスで客死した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャコモ・マイアベーア (1864年没)
- ヘンリー・スクールクラフト (1864年没)
- プリンセス・カラブー (1864年没)
- アントン・シンドラー (1864年没)
- レオニダス・ポーク (1864年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョサイア・バートレット (1795年没)
- カレン・ヴェッターハーン (1997年没)
- ジョン・スローン (1951年没)
- アボット・ハンダーソン・セイヤー (1921年没)
- ドネラ・メドウズ (2001年没)