伝記
ブノワ・ポール・エミール・クラペイロンは、1799年2月26日にパリで生まれ、1864年1月28日に同じパリで没したフランスの物理学者、工学者である。蒸気機関の設計に従事し、カロリック説の信奉者であったが、熱力学の分野でクラウジウス-クラペイロンの式に名を残す業績をあげた。
少年期はジュイイのオラトリオ会の学寮で学び(1808年〜1814年)、続いてエコール・ポリテクニーク(1815年〜1818年)、パリの鉱山学校(1818年〜1820年)に進んだ。ポリテクニークでは、サディ・カルノー(1796年〜1832年)と同時期の学生であった。王立鉱山技師団の技師となり、同窓で友人のガブリエル・ラメとともに1820年にサンクトペテルブルクへ赴き、1809年に創設された交通学校で学生を教えた。ロシア政府は二人の若いフランス人に吊り橋の設計も任せた。ラメとともにより良いセメントになる石灰岩も見つけている。1830年の七月革命の後、フランスとロシア皇帝の間の緊張が急に高まり、二人は帰国せざるをえなくなった。
1830年に帰国すると鉄道に熱中し、1832年から1834年までサン=テティエンヌの鉱山学校で教えた。パリからサン=ジェルマン=アン=レーへの鉄道の計画を考えて報告書を書き、1836年にはペレール兄弟のその鉄道会社に入って、旅客用路線の経路の調査に加わった。同僚はみなサン=シモン主義者であった。1837年からは北フランスの鉄道計画に、1852年からは南部の路線の建設に取り組んだ。弾性についての考察から、梁や橋のアーチの計算を進歩させ、蒸気を膨張させる機構は機関車の製造に進歩をもたらしたという。
科学の面では、ラメとともにパリの科学アカデミーに宛てて「均質な固体の内部平衡についての覚書」を書き、ポアンソとナヴィエが報告者を務めた。1831年に発表されたこの論文で、応力楕円体の概念が初めて現れた。ラメとはほかにも、歯車、ロシアの吊り橋、液体の球が冷えて固まることについて共同で論文を書き、鉄道を国土防衛の観点から考察した覚書(1832年ごろ)や、農業・工業・商業などのための学校の計画(1833年)も共同でまとめている。1834年には『熱の動力についての覚書』を発表し、2年前に亡くなったカルノーの仕事に注意を促して、より分かりやすい形に発展させた。これがクラペイロンの図である。カルノーはすでに廃れつつあったカロリック説の用語で研究したが、彼はその仕事の新しさと重要性を訴えた。さらにカルノーが示唆した可逆過程の考えを発展させ、1843年には今日の熱力学第二法則にあたる命題を述べた。純粋な物質の状態変化の潜熱を与えるクラペイロンの式と、その簡略形であるクラウジウス-クラペイロンの式にその名を残している。
1844年からはパリの国立土木学校で、機械工学と力学の教授を務めた。1858年にはコーシーの席を継いで科学アカデミーの会員に選ばれた。晩年はパリのショセ・ダンタン通り21番地に住み、65歳で没した。妻メラニーは、ロシアでともに働いたピエール=ドミニク・バゼーヌの娘で、フランス元帥バゼーヌの姉妹である。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・スミス・オブライエン (1864年没)
- ヘルマン・ツー・ヴィート (1864年没)
- ジョン・ハニング・スピーク (1864年没)
- ルイ・アシェット (1864年没)
- アポロン・グリゴリエフ (1864年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ5世ジョゼフ (コンデ公) (1818年没)
- オクターヴ・フイエ (1890年没)
- パーヴェル・チチャーゴフ (1849年没)
- アレクサンドル・コイレ (1964年没)
- ジャン・シメオン・シャルダン (1779年没)