伝記
トーマス・ジョナサン・ジャクソンは、1824年1月にバージニア州クラークスバーグ(現在のウェストバージニア州)で生まれ、南北戦争で南部連合の軍人となった。弁護士の父ジョナサンと母ジュリアの三番目の子で、二歳のとき、父と四つ上の姉エリザベスが腸チフスで急死した。母は教師とお針子の仕事で子供たちを育てたが、四年後に再婚し、翌年に異父弟を産んだときの合併症で亡くなった。七歳で孤児になったジャクソンは、農場を営む父方の叔父カミンズに引き取られ、厳しく育てられた。公教育を受けにくい土地で、できる限り学校へ通いつつ自学自習に励み、農場の奴隷に読み書きを教えるという約束も、ナット・ターナーの反乱以降は州法違反となったにもかかわらず守ったという。
1842年にウェストポイントの陸軍士官学校へ入った。入校試験には苦労し、初年度は落第すれすれの成績だったが、誰より懸命に学んで、1846年の卒業時には五十九人中十七位まで順位を上げた。第1砲兵連隊に配属され、米墨戦争では果敢な戦いぶりで二度の名誉昇進を果たし、メキシコでロバート・E・リーとも友人になった。1851年にはバージニア軍学校の教官となり、砲兵術などを教えたが、厳格さのため訓練生にはあまり人気がなかったらしい。1853年にエリノア・ジャンキンと結婚したが、彼女は長男の出産で母子ともに亡くなり、1857年にマリー・アンナ・モリソンと再婚した。1859年のジョン・ブラウンの蜂起では、その処刑場の警備に出動している。
1861年に南北戦争が始まると、ジャクソンは新兵の指導を受け持ち、6月に准将となってジャクソン旅団を任された。7月21日の第一次ブルランの戦いで、数に勝る北軍の前に南軍の戦線が破られそうになるなか、旅団は頑強に抵抗した。これを見たビーが「石の壁のようにジャクソンが頑張っているぞ」と叫んで部隊を励まし、南軍は反撃して北軍は総崩れとなる。ここから彼はストーンウォール・ジャクソンと呼ばれることになった。10月に少将へ昇進し、翌1862年春にはシェナンドー・バレーの防衛を命じられる。バレー戦役でジャクソンは、3月のカーンズタウンの戦いで唯一敗れたものの、増援を得て勝ち続けた。一万七千の軍で48日間に646マイルを機動し、五回の大きな会戦に勝って合計六万の敵軍を破ったとされ、一躍南部の英雄となった。
その後はリーの指揮下で第2軍団を率い、六月からの七日間の戦いでは精彩を欠いたと批判されるが、消耗しきっていたことも事実という。第二次ブルランの戦いではポープの北軍の側面を迂回して物資集積拠点をおさえ、攻撃を誘って撃破した。アンティータムの戦いで大きな損害を受けても、12月のフレデリックスバーグの戦いでは北軍の攻勢を防ぎきった。1863年5月、チャンセラーズヴィルでリーが賭けに出て、ジャクソン軍団二万八千を西から迂回させると、2日夕刻に北軍の側面を衝き、奇襲に成功した。しかし戦闘後、司令部へ戻ろうとした一行を北軍騎兵と誤認した南軍のノース・カロライナ連隊の兵に撃たれ、ジャクソンは三発の銃弾を浴びた。左腕を切断し、農場の事務所に収容されたが肺炎を併発し、5月10日に息を引き取った。最期の言葉は「川を渡って…木陰で休もう…」だったと伝わる。リーは「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った」と嘆いたとされる。
信仰心に篤く、日曜日の戦闘を好まなかった。妻と娘には優しい手紙を送り、着古した軍服を好んで、一兵卒のように見えたという。遺体はレキシントンのストーンウォール・ジャクソン記念墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- フリードリヒ・フォン・プロイセン (1794-1863) (1863年没)
- ロバート・グールド・ショー (1863年没)
- ヨハン・カール・エーレンフリート・ケーゲル (1863年没)
- アルフレッド・モカン=タンドン (1863年没)
同じ地域に関係する人物
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- Dave Williams (2002年没)
- エドワード・ベイカー (1861年没)
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- アレクサンドラ・リプリー (2004年没)