HISTORICAL PERSON · 1861年没

フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー

ドイツの法学者で、歴史法学の創始者。33歳でベルリン大学の総長となり、法典論争ではティボーと争って統一民法典の編纂に反対した。近代私法の基礎を築き、門弟はパンデクテン法学を発展させた。

生涯
1861年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(フランクフルト・アム・マイン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーは、1779年2月21日、帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに生まれたドイツの法学者である。ローマ法の研究者としてドイツ歴史学派の法理論を完成させ、歴史法学の創始者とされる。祖先は第3回十字軍に参加したフランス騎士にまでさかのぼるといい、17世紀にはユグノーであったためドイツに亡命して財産を築いた。名家ではあったが、12歳で父を失い、母もそのショックで翌年に亡くなった。12人いたとされる兄弟もこの時までに全員が世を去っており、帝室裁判所判事であった遠縁に引き取られた。生前の母の勧めでフランス語を、育ての親の勧めで法律学を学び、1795年、16歳でマールブルク大学に入った。さらにゲッティンゲン大学などでも学んでいる。マールブルクでは教授フィリップ・フリードリヒ・ヴァイスと出会い、ローマ法の研究に関心を抱いた。

1800年に刑法に関する学位論文で学位を受け、講師を経て翌年には員外教授に抜擢された。1803年に『占有権論』を発表すると、翌年からヨーロッパ各地を旅してローマ法の史料を集めた。この旅の途中で、門人で後に論敵となるヤーコプ・グリムと出会っている。1804年には詩人クレメンス・ブレンターノの妹クニグンデ・ブレンターノと結婚した。1810年に新設のベルリン大学に招かれ、2年後には初代総長フィヒテの後を受けて33歳で総長に抜擢されたが、1813年にはわずか1年で辞任した。

そのころ、ナポレオンの敗北を受けて、ドイツに導入されていたナポレオン法典を排除すべきか、排除するとして旧来の法に戻すのか新しい法制を導入するのかが論争になっていた。サヴィニーは1814年に『立法と法学に対するわれわれの時代の使命について』を著し、ドイツの法学は民法典を制定できるほど成熟しておらず、法学を成熟させることが先決だと説いた。統一民法典の必要を唱えたティボーとのこの法典論争に、彼は勝利したとされる。ただ、ティボーの主張にはドイツ統一を願うナショナリズムや自由主義を擁護する意図があったのに対し、サヴィニーは領邦体制を含む神聖ローマ帝国の国制を基本的に望ましいと考え、自らの研究対象でもあるローマ法の延命を図りたいと考えていた。プロイセン、オーストリア、バイエルンなどが割拠する当時の状況では、合意を得て法典を成立させるのは不可能とも見ていた。

1815年には、カール・フリードリヒ・アイヒホルンらと歴史法学の雑誌を創刊した。主著に『中世ローマ法史』全6巻と『現代ローマ法の体系』全8巻があり、グスタフ・フーゴーの歴史法学を継承してローマ法の近代化に努めた。民法学では、意思表示理論や法人擬制説を提唱した。1842年から1848年までプロイセンの法律改正大臣を務め、革命で辞任している。1861年10月25日にベルリンで没した。門弟たちはパンデクテン法学を発展させ、ドイツ民法典の基礎を築いた。一方、マールブルクで彼の方法論に感銘を受けたヤーコプ・グリムは、やがてローマ法も外来の法に過ぎないとしてサヴィニーを批判し、ゲルマニステン法学を唱えるようになった。

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