伝記
ベオルンウルフは、七王国時代のマーシア王国の王である。在位は823年から825年とも826年ともいわれ、その短い治世のうちに、マーシアが他の王国に対して保っていた優位は崩れ去った。名は古英語の「戦士」を意味する語と「狼」を意味する語に由来するとされる。
出自はほとんど分かっていない。父はベオルートウェルドといい、マーシアの貴族でエアルドルマンでもあったと伝えられる。812年のコエンウルフ王の勅書と、823年のチェオルウルフ1世の勅書に同じ名が証人として見えるが、記された位置から、とりわけ高い地位にあった人物ではなかったと考えられている。マーシアの先王ベオルンレド、のちの王ベオルフトウルフやバーグレッドと遠い縁があったとの推測もあるが、これは名が頭韻で揃うことに基づく憶測にすぎない。
823年、チェオルウルフ1世が王座を追われると、ベオルンウルフが王となった。このころ北ウェールズのポウィスはすでにマーシアの支配下にあったが、彼がその時点で実権を握っていたのかどうかは分からない。先王より精力的で戦いを重ねる王であったことから、ポウィスの征服は彼の治世の初めに行われたのではないかとも考えられている。また彼は、のちにグロスター大聖堂となる聖ペテロ修道院を建て直した。824年と825年には、カンタベリー大司教ウルフレドとともにクロフェショの教会会議を主宰した。クロフェショの場所は特定されていないが、ロンドン近郊とみられている。
825年、ベオルンウルフはウェセックスへ兵を進めた。両軍はエランダン(現在のウィルトシャーのロートン付近)で戦い、マーシア軍は手痛い大敗を喫した。細部は不明だが、研究者はこれをマーシア優位の終わりとみなしている。同じ年、ウェセックス王エグバートの息子エゼルウルフがケントに侵攻し、親マーシア派のケント王バルドレドを追放した。
その後、マーシアの南イングランドにおける支配は急速に崩れた。エセックスとサセックスはエグバートに忠誠を誓うようになり、イースト・アングリアの人々も同じ年にマーシアに対抗してエグバートの保護を求めた。ベオルンウルフは、イースト・アングリアの反乱を鎮めようとして戦いのなかで殺された。ただ、826年3月27日付のケントの勅書が彼の治世第3年のものとされることから、その時点でもケントに権威が及んでいたことがうかがえる。彼は自分の名を刻んだ貨幣も発行したが、治世の途中で途絶えた。そのため現存する貨幣は稀で、確認されているのは25枚ほどにすぎない。
同じ年に亡くなった人物
- ムアンマル・ブン・ムサンナー (825年没)
- ランポー (825年)
- ウライヤ・ビント・マフディー (825年)
- ディクイル (825年)
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