伝記
プサムティスは、エジプト第29王朝のファラオである。エジプト語の名はパシェリエンムトで、プサムティスはそのギリシア語形にあたる。王名のひとつはウセルラーとも伝えられる。在位は紀元前393年のごく短い期間とも、紀元前393年から392年にかけてとも、紀元前392年から391年にかけてともされ、はっきりしない。
先王ネフアアルド一世(ギリシア語名ネペリテス一世)が紀元前393年に亡くなると、後継をめぐって短い混乱が起きた。二つの派閥が争い、一方は先王の子ムティスを、もう一方は王位を狙うプサムティスを支持したという。ムティスはわずか数か月しか王位にいられず、プサムティスに退けられたとする説もある。別の仮説では、先王の跡はその子と思われるハコルが継いだが、その治世の第二年にパシェリエンムトが簒奪者として権力を奪い、ハコルを退けて自ら王を名乗ったとされる。プサムティスとハコルはともに先王の親族だったとも伝わるが、動機は分かっていない。
王位にあったのは一年ほどである。マネトンの王名表の要約やデモティック年代記もこの王に一年の治世を与えており、遺物の最も新しい日付、すなわちアピスの母の石碑にある「第一年、ペレト季の第四月」とも合致する。やがてプサムティスはハコルに倒された。ハコルは再び権力を握り、自らの最初の戴冠の日から年を数えて、簒奪者などいなかったかのように振る舞ったと考えられている。ハコルがプサムティスのカルトゥーシュを自分のものに書き換え、王位の継承を先王から直接のものとしたともいわれる。そのため、この王が王朝のなかで占める位置は議論が分かれ、史料によってはハコルの後継者とされることもあるが、多くは前任者としている。
当時の首都はメンデスで、プサムティスはここで実権を握っていたとされるが、その名を刻んだ遺物はほとんど残っていない。それでもテーベには遺構があり、カルナックの聖なる湖の南側の建造物でカルトゥーシュが確認される。サッカラのセラペウムから出たアピスの母の石碑、アクミームの石材のほか、テーベ地域の出土品がある。カルナックの礼拝堂はこの王が建てさせたとされるが、後にハコルが完成させたといい、もともとハコルが着工したのかもしれない。2022年と2023年にはテル・ティマイで第29王朝の神殿が発掘され、プサムティスに捧げられた大きな碑文が見つかった。ここはメンデスの一部にあたる町だったが、この神殿は、アルタクセルクセス三世によるエジプト再征服ののちに略奪され、破壊されたようである。神殿はプトレマイオス二世の時代に再建され、その一部はイシスの姿のアルシノエ二世に捧げられたが、この二度目の神殿も、ロゼッタ・ストーンに言及される大反乱のなかで壊されたらしい。
同じ年に亡くなった人物
- アエロポス2世 (紀元前393年没)
- パウサニアス (マケドニア王) (紀元前393年没)
- サテュロス1世 (紀元前393年没)
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