伝記
カール・リッターは、1779年8月7日にドイツのクヴェトリンブルクで、地元の医者の子として生まれた地理学者、教育家である。近代科学としての地理学の方法論の確立に努め、同じドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトと並んで、近代地理学の父と称えられる。幼いころに父を亡くし、経済的な苦境に陥ったが、著名な教育学者ザルツマンが経営するシュネッフェンタール学園に学費を免除されて入ることができた。この学校は自然の学びを重んじ、ルソーの児童教育論の影響を受けていたとされる。この経験は生涯にわたって彼に影響し、のちにはスイスのペスタロッチを訪ねて、その教育思想にも関心を寄せている。
学校を終えると、すでに地理学に興味を抱いていた彼は、フランクフルトの名家ホルベーク家を紹介され、その子どもたちの家庭教師を務めることになった。同時に、後援者の費用でハレ大学に進学した。ホルベーク家での信頼は絶大で、これが彼を世に出す足がかりになった。この時代には地理学のほか、地質学や博物学からも影響を受けている。フンボルトに出会ったのも、1807年にこのフランクフルトの地であった。家庭教師は10年以上続き、その間も地理学の研究に励んだ。
子どもたちが成長すると、教え子を見守るため、彼はゲッティンゲン大学に移った。ここで地理学の研究に没頭し、大著『地理学』の最初の巻を発表して、地理学者としての名声を高めた。地表とその住民との関係を説いたこの著作は、近代学問としての地理学の確立に欠かせない存在とされる。当初は全4巻になる予定だったが、没するまで版を重ねながらも完成を見ず、まさにライフワークとなった。ゲッティンゲンでは、16歳年下のリリー・クラマーと知り合い、1819年に結婚した。同じ年にフランクフルトに戻って教師となったが、翌1820年にベルリン大学から招かれて移り、以後は没するまでそこで地理学を講じた。
ベルリン大学は世界で最初に大学での地理学講座を置き、専門の地理学者を養成した大学であり、彼はその初代教授となった。講義にはドイツのみならずフランスやロシアからも学生が集まり、その思想は各国に持ち帰られて近代地理学の発展に寄与した。調査旅行の範囲はフンボルトに比べると狭く、書斎地理学者という色合いが強かったが、訪れた土地はヨーロッパのほぼ全域に及ぶ。アジアにはほとんど赴かず、主著の中心となったアジアの地理情報は、図書館から得たものが大きい。1828年にはベルリン地理学協会を設立し、1845年にイギリス王立地理学会から金メダルを受けた。1852年には、地理学の方法論に欠かせない『一般比較地理序説』を著した。アフリカの探検にも強い関心を寄せ、イギリスの学界と絶えず連絡を保った。アフリカを探検したハインリヒ・バルトも教え子の一人で、彼自身、ドイツで奴隷制に反対する論陣を張ったとされる。1822年にはプロイセンの科学アカデミーの会員に選ばれ、1856年にはプロイセンの王立地図研究所の管理者に任じられた。
高齢になるまでベルリンで教えていたが、1859年に病に伏し、9月28日に80歳で没した。同じ年の5月には、ともに近代地理学の確立に努めたフンボルトも世を去っていた。1865年には生地クヴェトリンブルクに記念碑が建てられ、カリフォルニアのリッター山脈にも彼の名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- Charles Lenormant (1859年没)
- Juan Bautista Ceballos (1859年没)
- リー・ハント (1859年没)
- アレク・ルッソ (1859年没)
- フェルディナンド2世 (両シチリア王) (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・シュトラウス3世 (1939年没)
- フーゴ・シュティネス (1924年没)
- アルブレヒト・ヴェーバー (1901年没)
- アドルフ・マルテンス (1914年没)
- テオドール・フォンターネ (1898年没)