伝記
シャルル・リュシアン・ボナパルトは、1803年5月24日にパリで生まれ、1857年7月29日にパリで没したフランスの生物学者・鳥類学者である。リュシアン・ボナパルトとアレクサンドリーヌ・ド・ブレシャンの間の息子で、皇帝ナポレオン1世の甥にあたる。1804年に一家はローマ教皇ピウス7世の庇護を求めてローマへ向かい、彼はイタリアで育った。1810年に教皇とナポレオンが決裂すると、一家は米国へ渡ろうとしたが、地中海で英国海軍に捕らえられ、ナポレオンの失脚する1814年まで英国に留め置かれた。その後、教皇領に戻っている。
1822年6月29日、ブリュッセルでいとこのゼナイードと結婚した。ゼナイードの父はジョゼフ・ボナパルトで、夫婦はその父と暮らすため米国のフィラデルフィアへ向かい、彼は1823年から1826年にかけて同地の科学者の集まりで活動した。イタリアを離れる前にすでにムシクイ類の新種を発見しており、航海中にはウミツバメ科の標本を集めた。米国に着くとこの新しい鳥について論文を発表し、この鳥は後にアレキサンダー・ウィルソンにちなんで名付けられた。その後は米国の鳥類学を研究し、ウィルソンの『アメリカの鳥類学』の改訂版を1825年から1833年にかけて出版した。1824年には、当時まだ無名だったジョン・ジェームズ・オーデュボンを自然科学アカデミーに受け入れさせようとしたが、鳥類学者ジョージ・オードの反対にあった。
1826年の暮れに家族とヨーロッパへ戻り、ドイツでフィリップ・ヤコブ・クレッチマーに会い、イングランドの大英博物館ではジョン・エドワード・グレイに会って、オーデュボンとも関係を新たにした。1828年に家族はローマに定住し、彼はイタリアで複数の科学会議の発起人となり、講義を行い、アメリカやヨーロッパの鳥類学・博物学について幅広く執筆した。1832年から1841年にかけて、イタリアの動物を扱う『イタリア動物誌』を発表した。ナゲキバトの近縁種には、妻にちなんでゼナイダ属の名を与えた。1840年に父が亡くなるとカニーノ=ムジニャーノ公となり、1848年には反オーストリアの政党に関わるなど、政治にも関与するようになった。
1849年にはローマ共和国の建国に参加してローマ議会に選出され、従兄弟のルイ・ナポレオンが送った約4万人のフランス軍に対するローマ防衛にも加わった。共和国軍が同年7月に敗れるとローマを去り、マルセイユに上陸したが、ルイ・ナポレオンから国外退去を命じられた。翌年にはある極楽鳥に共和国の名を冠して命名し、政治的信念を示した。1850年にフランスへの帰国とパリの自宅で暮らすことを許され、1854年にパリ植物園の管理者となり、1855年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員になった。『鳥類属概説』第1巻を発表したあとに死去し、第2巻はヘルマン・シュレーゲルが編集した。多数の鳥の学名を作り、国際鳥類学者連合のリストには2019年8月の時点で165属203種262亜種の命名者として記録されている。妻ゼナイードとの間には12人の子があり、のちに枢機卿となったリュシアン・ルイもその一人である。
同じ年に亡くなった人物
- Abraham Jacob van der Aa (1857年没)
- Jozsef Szen (1857年没)
- オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1788-1857) (1857年没)
- マヌエル・ホセ・キンタナ (1857年没)
- Sophie Swetchine (1857年没)
同じ地域に関係する人物
- エドヴィージュ・フィエール (1998年没)
- ジャン=ランベール・タリアン (1820年没)
- アレクサンドル・シャルパンティエ (1909年没)
- ピエール・マンデス=フランス (1982年没)
- アンリ・エティエンヌ・サント=クレール・ドビーユ (1881年没)