HISTORICAL PERSON · 1857年没

オーギュスタン=ルイ・コーシー

フランスの数学者。エコール・ポリテクニークに学び、極限を使って連続関数を定義するなど解析学に厳密な基礎を与えた。複素解析の積分理論や留数計算を築き、コーシー列などに名を残す。

生涯
1857年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ソー)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

オーギュスタン=ルイ・コーシーは、1789年8月21日にパリで生まれたフランスの数学者である。解析学への多大な貢献から「フランスのガウス」と呼ばれることもあり、これは両者がともに数学の厳密主義の開始者であったことにも関係する。天文学、光学、流体力学などにも貢献があり、技術者としても活動した。父ルイ・フランソワは旧体制下のパリ警察の高官だったが、コーシーが生まれる1か月前に始まったフランス革命でその地位を失った。一家は革命後の恐怖政治の時代をパリ郊外の小さな村アルクイユに逃れて過ごし、コーシーは最初の教育を父から受けた。同じ村に住んでいたラプラスが父と知り合い、幼いコーシーの非凡な才能に気づいたという。混乱した世相のなかで貧しい暮らしを送ったため病身になり、生涯、健康に気を配って暮らしたと伝えられる。

のちにパリへ戻った父はナポレオン政権下で元老院書記長の職を得て、ラプラスの下で働いた。その縁で一家はサロンの科学者たちと親しく、数学者ラグランジュは、コーシーを「未来の大数学者」と呼んで期待をかけたと伝えられる。ラグランジュの助言により、1802年の秋に当時パリで最良の中等学校とされたエコール・サントラル・デュ・パンテオンに入学し、ラテン語や人文学で数々の賞を得た。それでも技術者の道を選び、1805年に293人の志願者のなかで2位の成績でエコール・ポリテクニークに入った。軍隊式の規律には馴染むのに苦労したが、1807年に課程を終え、さらに土木学校へ進んで最優等で卒業した。

1810年に学校を終えると、ナポレオンが海軍基地を築こうとしていたシェルブールで若手技師として働いた。3年間そこにとどまり、ウルク運河やサン・クルー橋の計画に携わり、シェルブール港でも働いた。多忙な職務のかたわら、フランス学士院の第1部門に三つの論文原稿を提出し、多面体を扱う最初の二つは受理されたが、円錐曲線の準線を扱う三つ目は退けられた。1812年9月、過労で病んだ23歳のコーシーはパリに戻った。技師の仕事への興味を失い、数学の抽象的な美しさにますます惹かれていたことも理由とされる。1813年から3年ほどは主に無給の病気休暇で過ごして数学の研究に打ち込み、1813年から1815年のあいだに学士院への入会を三度試みて失敗した。1816年には王に科学アカデミー会員に任じられたが、ほかの会員たちは強く反発し、科学者の間に多くの敵をつくった。1818年にはアロイーズ・ド・ビュールと結婚し、二人の娘をもうけた。

政治的には、両親の影響でリベラルに反対し、熱心なカトリック信者としてイエズス会を擁護した。1830年の七月革命でシャルル10世が追われると、その後を追うように国外で8年間の亡命生活を送った。トリノでは国王の支援でトリノ大学の物理学講座を受け持ち、のちにシャルル10世の要望でプラハへ移って、その孫アンリ・ダルトワの家庭教師を務めた。

数学では、多面体に関するオイラーの定理に最初の証明を与え、置換の計算を通じて群論の誕生に影響を与えた。解析学では曖昧さを取り除いて厳密な基礎を与えようとし、その講義は後の教科書の規範となった。複素解析では積分の理論や留数計算など基本概念の多くを独力で生み出した。一方で、アーベルやガロアの論文の審査を引き受けながら紛失した不手際でも知られる。論文は約800編、完成した教科書は5冊にのぼる。1857年5月23日に没した。

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