伝記
ロベルト・アレクサンダー・シューマンは、1810年6月8日、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれたドイツ・ロマン派を代表する作曲家である。父アウグストは書籍販売と出版を営み、土地の名士となった人物で、文学者を志してライプツィヒ大学に学んだ経歴をもち、スコットやバイロンの翻訳全集などを出版した。母ヨハンナは外科医の娘であった。ロベルトは5人兄弟の末子で、兄が3人、姉が1人いた。6月14日に自宅で洗礼を受け、3歳から5歳のあいだは代母の家に預けられて養育されたという。
幼いころから音楽への関心は強く、7歳のとき父に連れられてドレスデンでウェーバー指揮のベートーヴェンの交響曲を聴いて感動した。9歳の夏にはボヘミアのカールスバートでモシェレスのピアノ・リサイタルに接し、この体験がピアニストを志すきっかけになったとされる。同じ年にライプツィヒでモーツァルトの『魔笛』を初めて観て、その抜粋をピアノ用に編曲した。1820年に10歳でギムナジウムに入学し、聖マリア教会のオルガニストだったクンチュにピアノを学んだ。父は高価なピアノを買い与え、友人たちと作った小さな楽団のために楽譜や譜面台まで用意して息子を支えた。11歳でオラトリオ『詩篇第150番』を作曲したが、この時期の作品はほとんど失われている。一方で文学にも熱中し、父の雑誌に短文を寄せ、校内の文学サークルでは中心的な存在となった。とりわけ作家ジャン・パウルに傾倒した。1826年には姉エミーリエが入水自殺し、父アウグストも世を去った。
1828年にギムナジウムを優等で卒業すると、母や後見人の勧めでライプツィヒ大学の法科に進んだ。しかし法学になじめず、講義への出席は次第に減り、母への手紙に冷徹な法学を好きになれないと書き送っている。かわりに学生仲間と室内楽の演奏に打ち込み、とくにシューベルトのピアノ三重奏曲第1番を好んで弾いた。ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を聴き、聖トーマス教会ではバッハのカンタータにも触れた。この年には友人ローゼンとバイエルンを旅し、ミュンヘンで詩人ハイネに会っている。ライプツィヒではピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに入門し、その娘で当時9歳だったクララとも親しくなった。やがてピアニストをめざしたが、指の故障のためにその道を断念し、作曲家として立つことになった。
1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年にわたって音楽評論を書いた。文学への造詣が深く、後の評論に見られる対話体の手法は、古代ギリシャのプラトンの影響が大きいとされる。クララとの恋愛と結婚は創作に大きな影響を与えたとされる。この時期から精神障害の症状に悩まされるようになった。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にはデュッセルドルフへ移って、指揮者としても活動した。子供向けのピアノ曲を書くなど教育の面でも足跡を残した。1853年には若いブラームスと出会い、論文「新しい道」で若き天才として紹介したが、翌1854年にライン川へ身を投げた。救助されてボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年7月29日、46歳で亡くなった。ピアノ曲と歌曲に特に高い評価が寄せられ、交響曲から合唱曲まで幅広い作品を残している。
同じ年に亡くなった人物
- オーギュスト・シャプドレーヌ (1856年没)
- Theodore Guerin (1856年没)
- オーギュスタン・ティエリ (1856年没)
- ニコラ=シャルル・ボクサ (1856年没)
- アメデオ・アヴォガドロ (1856年没)
同じ地域に関係する人物
- ミヒャエル・リッペルト (1969年没)
- アンノ2世 (1075年没)
- オットー・ヴェディゲン (1915年没)
- ハインリヒ・ベル (1985年没)
- ペトラ・ケリー (1992年没)