伝記
シャーロット・ブロンテは、1816年4月21日、イギリスのヨークシャーのソーントンに、牧師パトリックの三女として生まれた小説家である。のちにブロンテ三姉妹の長姉として知られる。1820年に父がハワースの牧師に任命されて一家は牧師館に移り、翌1821年に母マリアが癌で危篤となって、同年9月に三十八歳で世を去った。母の姉であるブランウェル伯母がペンザンスから来て滞在を続け、育児と家事を引き受けた。1824年8月、シャーロットは姉二人と二歳下の妹エミリーとともにランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入学した。同じ年、父は年配の未亡人タビサ・アクロイドを使用人として雇い、彼女は以降三十年にわたって一家を支え、愛された。入学先は設備が劣悪で、姉二人は不衛生な寄宿舎が原因で肺結核にかかり、1825年に十一歳と十歳で亡くなった。この学校は『ジェーン・エア』のローウッド学院のモデルで、不衛生な管理や粗末な食べ物によるひもじさの描写は実体験に基づいている。
家に呼び戻されたきょうだいは、牧師館で父と伯母の教育を受けながら、読書や遊びに明け暮れる日々を五年半ほど過ごした。政治や文学の論評など多彩な記事を載せた「ブラックウッズ・マガジン」を愛読して知的刺激を受け、シャーロットは一歳下の弟ブランウェルと空想世界を舞台にした「アングリア物語」など、多くの詩や戯曲を書いた。家に貯えが乏しかったため、年長者として家計を助けようと、1831年から私塾で一年半学んだのち、1835年にロウ・ヘッド・スクールへ教師として赴任した。仕事に忙殺されて不満を募らせ、1837年には桂冠詩人ロバート・サウジーに詩を添えて手紙を送ったが、「文学は、女性の一生の仕事にはなりえない」という趣旨の忠告を受けた。その後は家庭教師として各地を転々とした。
私塾を開く計画を妹と相談し、1842年、エミリーとともにベルギーのブリュッセルにあるエジェ寄宿学校へ留学した。伯母の死でいったん帰国し、エミリーを残して再び渡ったが、学長の夫に恋慕を抱いて一年足らずで帰国した。帰国後に開いた私塾には、入塾希望者が現れなかった。1846年5月には、男性風のカラー・ベルの筆名で三姉妹共同の詩集を出版したが、売れたのはわずか二部だった。三人は小説を書き始め、シャーロットが最初に完成させた長編は出版社に受け取られず、死後に出版された。そこで父の看病の合間に第二作『ジェーン・エア』を書き上げ、1847年10月にカラー・ベルの名で刊行すると、社会に反抗する同名の女主人公が大きな反響を呼び、その名は広く知られるようになった。
ところが翌年、ブランウェルが三十一歳で亡くなり、同じ年の末にエミリーも三十歳で世を去った。さらに翌年にはアンも倒れ、二十九歳で没した。ロンドンに出るよう誘われるようになると、シャーロットは身元を明かし、エリザベス・ギャスケルやサッカレーらと交わった。1849年に『シャーリー』、1853年に『ヴィレット』を発表し、1854年6月には副牧師と結婚した。しかし妊娠中に妊娠中毒症にかかり、1855年3月31日、「エマ」を未完のまま、胎内の子とともに三十八歳で死去した。六人のきょうだいの中で最も長く生きたが、いずれも子孫を残さず早世したため、彼女の死によってブロンテ家は断絶した。
友人ギャスケルが著した伝記『シャーロット・ブロンテの生涯』は、父パトリックを子供への関心の薄い人物として描いた。ただ、ギャスケルが集めた情報には誤りも多く、実像とは異なると言われる。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ・ドルーイ (1855年没)
- ディポヌゴロ (1855年没)
- セーレン・キェルケゴール (1855年没)
- コンスタンティン・バチュシコフ (1855年没)
- マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ (1855年没)
同じ地域に関係する人物
- エイドリアン・メトカーフ (2021年没)
- ヘンリー・アーヴィング (1905年没)
- エミリー・ブロンテ (1848年没)
- エイブラハム・シャープ (1742年没)
- アレクサンダー・キース・ジョンストン (1804年生の地理学者) (1871年没)