伝記
ゲルベルガは、八世紀のフランク王カールマン一世の妃で、カール大帝の義妹にあたる人物である。夫の死後、ランゴバルド王デシデリウスのもとへ逃れたことが、最後のフランク・ランゴバルド戦争を招き、七七四年にランゴバルド王国の独立が終わる一因となった。
ゲルベルガについてはほとんど分かっていない。家族や出自も不明で、デシデリウスの娘とする記述は、カール大帝に嫁いだランゴバルドの王女デシデラータとの混同によるらしい。彼女がフランク人であったことは、教皇ステファヌス三世が証言している。教皇はデシデラータとカール大帝の結婚を聞き、カールマンとカールに叱責の書簡を送り、父ピピン短躯王の明確な命令により二人は美しいフランクの女性と結ばれたはずだ、と述べた。ゲルベルガは結婚生活のなかでカールマンとの間に二人の息子を産み、年長の子はピピンと名づけられた。カールマンが死ぬと(ある史料では激しい鼻血によるという)、ゲルベルガは息子たちが夫の王国を継ぐと期待し、おそらく自らが摂政として治めるつもりでもいた。ところがカール大帝が兄弟の領土を奪ったため、ゲルベルガは息子たち、およびカールマンの重臣アウトカールとともにフランクを去った。カールの伝記を書いたアインハルトは、彼女が「何の理由もなく」逃げたと述べている。別の訳では、カールマンの死後、妻と子らは有力な側近の何人かとともにイタリアへ逃れ、夫の兄弟を軽んじる行いとして、ランゴバルド王デシデリウスの保護下に入ったと記されている。
ランゴバルドでは、デシデリウス王がパヴィーアで一行を受け入れた。デシデリウスはカールマンの在位中、カールと結んでいたためカールマンと敵対していた。しかし、カールが少し前にデシデリウスの娘デシデラータを離縁したことで関係が冷え、カールマンの家族を支持する側に回った。王は教皇ハドリアヌス一世に働きかけ、カールマンの息子たちをフランク王として戴冠させ、父の後を継ぐ権利を認めるよう求めた。
ゲルベルガの逃亡は、こうしてフランクとランゴバルドの最後の戦争を引き起こす契機となり、その結果ランゴバルド王国は七七四年に独立を失うことになる。七七三年、カール大帝はデシデリウスとゲルベルガが自分にもたらす脅威を取り除くためにイタリアへ侵攻した。デシデリウスはランゴバルドの都パヴィーアで包囲され、ゲルベルガは息子たち、デシデリウスの子アダルギス、アウトカールとともに、ランゴバルド最強の都市ヴェローナに避難した。パヴィーアが陥落するのは七七四年六月だが、ヴェローナはそれ以前に奪われていた。市民が長く抵抗する気を持たなかったためで、ゲルベルガと子どもたち、アウトカールはカールの前に引き出された。
その後の運命は分からない。フランクにも教皇庁にも、彼女らに関する記録がないからである。デシデリウスとその家族がそうであったように、ゲルベルガと息子たち(年長の子は剃髪を受けていた)も修道院に送られたとみる歴史家がいる。一方、カールが『王国分割令』で、息子たちに対し、その子や甥を害してはならないと命じていることから、自らの甥への扱いが念頭にあったのではないかとする見方もある。なお、ゲルベルガの子には、七六九年以前に生まれたフランク王子ピピン、七七〇年ごろに生まれた名の知れない息子、クニグンデまたはオーベルジュと呼ばれる者がいたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Luitgard (800年没)
- テオダート・イパート (800年(推定))
- エルメシンダ (800年(推定))
- 稗田阿礼 (800年(推定))
- マーガ (800年没)
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