HISTORICAL PERSON · 1853年没

クリスチャン・ドップラー

オーストリアの物理学者。1842年に振動数の変化に関する数式を導き、「ドップラー効果」として知られる。ウィーン大学で教えた。

生涯
1853年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェネツィア県 / ヴェネツィア)
出生地
オーストリア共和国(ザルツブルク)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェネツィア県)

伝記

クリスティアン・アンドレアス・ドップラーは、1803年11月29日に生まれたオーストリアの物理学者、数学者、天文学者である。ザルツブルクの石工親方の子とされ、生家はザルツブルク新市街のマカルト広場に面している。この広場には、モーツァルトが1773年に旧市街の生家から移り住んだ住居もある。1822年から1823年にかけてザルツブルクとウィーンの工科学院で物理学と数学を学び、1829年にウィーンの工科学院で数学の助教授に任じられた。しかしこの職が更新されなかったため、一時はアメリカ合衆国への移住も考えたという。

その後は1835年にプラハで数学の教授となり、1841年には数学と実用幾何学の教授になった。プラハ工科大学(現チェコ工科大学)でも教授を務めており、彼の名を冠した基礎物理学研究所「ドップラー研究所」が同大学に置かれている。のちに鉱山の顧問に任じられ、1847年10月からはハンガリー王立のシェルメツ鉱山学院で1849年まで教えた。科学上の仕事は主に光学で、明室カメラ顕微鏡や分光器の改良に取り組み、その天文学への応用も試みた。

プラハ時代の最大の業績が、観測者と振動源との相対運動によって振動数が変わる現象の研究である。ドップラーはこれを詳しく調べ、1842年にそれをもとにした数学的な関係式をつくった。これが「ドップラー効果」である。この現象は音波でまず解釈され、近づく音源の音は高く、遠ざかる音源の音は低く聞こえるとされた。光の場合は音の高さの変化ではなく、光源と観測者が遠ざかるときにスペクトル線のずれとなって現れる。ボヘミア王立科学協会で発表した最も有名な論文は二重星などの星の色づいた光を扱ったものだが、その計算には誤りがあったとされる。実際の光の振動数のずれが当時は検出できないほど小さかったためで、1846年にドップラーは光源と観測者の相対速度を考慮して原論文を訂正した。

1845年にはオランダの化学者で気象学者のクリストフ・ボイス・バロットが、ユトレヒトで列車を使った実験を行い、この効果を確かめた。トランペット奏者が列車の上でGの音を吹き続け、絶対音感を持つ音楽家がそれを聞いて音程の変化を確認したという。ボイス・バロットらは、この効果が星の見かけの色に大きな影響を与えないことも示している。のちにキルヒホフとブンゼンが、天体のスペクトル線を特定の元素のものとして確実に同定すると、天体のスペクトルのずれから遠ざかる速度を計算できるようになった。こうして1920年代には数千の天体や星雲の視線速度が知られ、のちのハッブルによる宇宙膨張の法則の発見への道が開かれた。

1850年、皇帝フランツ・ヨーゼフによってウィーン大学に新設された物理学研究所の所長に任命され、オーストリア初の実験物理学の教授となった。教え子の一人に、遺伝の法則で知られるメンデルがいる。珪肺を患い、学問上も教育上も妻に大きく支えられたが、1852年に職を退いて当時オーストリア帝国の港湾都市だったヴェネツィアに移り、アドリア海の穏やかな気候にもかかわらず、数か月後の1853年3月17日に没した。早世のため、同時代のブンゼンとキルヒホフの成果を知ることはなかった。小惑星(3905)ドップラーは彼の名にちなんで命名されている。

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