伝記
ニコライ・ゴーゴリは、1809年4月1日(ユリウス暦3月20日)にロシア帝国ポルタヴァ県ソロチンツィの小地主の家に生まれ、1852年3月4日(ユリウス暦2月21日)に没した小説家・劇作家である。父ワシーリはウクライナ語の劇作品を2篇のこしたアマチュア劇作家だった。一家は、1783年にウクライナへ農奴制が導入された際、貴族の称号を持たない地主が土地と農奴を持てなくなったため、コサックの連隊長オスタープ・ホーホリを家系図の筆頭に据えて姓を改めたと、研究では説明されている。1818年に9歳でポルタヴァの小学校に入り、翌年に弟を亡くして深い衝撃を受けた。1821年にネージンの高等中学校へ寄宿生として入ると、学業よりも絵画と文学に熱中し、学校演劇では老け役や吝嗇漢を得意とした。
1828年に中学校を卒業して首都ペテルブルクに出たが、筆名で自費出版した叙事詩は酷評され、失意のあまり一時は国外へ逃れた。俳優を志して失敗したのち下級官吏となり、この時期の貧しく寒々とした都会での経験は、のちに「ペテルブルクもの」と呼ばれる、下層民や小役人を描いた作品群に生かされた。1830年に最初の散文作品『ディカーニカ近郷夜話』を匿名で雑誌に発表し、ウクライナの民間伝承に取材したこの作品集によって一躍人気作家となった。1831年にはジュコーフスキーの紹介でプーシキンと出会い、プーシキンは才能を評価して親交を結んだ。
1836年に戯曲『検察官』で名声を広げたが、皮肉やユーモアは非難の的にもなり、批判を避けるためヨーロッパへ発った。スイスで『死せる魂』の筆を進め、1837年にパリでプーシキンの訃報に接して傷心のままローマへ向かい、以後は人生の大部分をドイツとイタリアで過ごした。1840年には『外套』を書き、1842年に『死せる魂』第1部が刊行された。第1部はロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第2部以降で主人公チチコフの成長と魂の救済が描かれる予定だったという。
しかし1847年に出版した『友人との往復書簡選』は、頑迷な説教と帝政・農奴制を賛美する反動思想のため、ベリンスキーをはじめ多くの支持者を失う結果となった。信仰にのめり込んだゴーゴリは1848年にエルサレムへ巡礼に出かけ、帰還後は聖職者の影響のもとで文学を棄てる決心をし、書き溜めた『死せる魂』第2部を再び焼いてしまった。1852年3月4日、断食による衰弱の末に没し、12日に盛大な葬儀が行われた。初期の作品はホフマンらヨーロッパ・ロマン派の影響下にあり、明るいユーモアと幻想性を特色とする。中期以降は、地方地主やペテルブルクの小役人の日常を誇張を交えて詳細に描き、その俗悪さや空虚さへの絶望が笑いと同居する独特の文体を築いた。この笑いは、しばしば「涙を通しての笑い」と呼ばれる。ドストエフスキーをはじめ後のロシア文学に与えた影響は大きく、日本でも芥川龍之介の『芋粥』の導入部が『外套』に酷似するなど、小説作法に学んだ作品が数多い。
ロシアとウクライナのあいだでは、長くゴーゴリの「所有権」争いが続いている。2009年の生誕200周年の式典で、ユシチェンコ大統領(当時)は「ゴーゴリは疑いなくウクライナのものだ。彼はロシア語で執筆したがウクライナ語で思索した」と述べた。ネージン時代にウクライナ語の戯曲を書いたゴーゴリ自身は、故郷の習俗や言語への愛惜を終生失わなかった一方、晩年にはウクライナ語で詩作したシェフチェンコに、ロシア語を擁護すべきだと苦言を呈している。
同じ年に亡くなった人物
- アンドリュー・ジャクソン・ダウニング (1852年没)
- クリストフ・グーデルマン (1852年没)
- ローズ・フィリピン・ドゥシェーン (1852年没)
- ヨハン·アンドレアス·シュメラー (1852年没)
- イーダ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1852年没)
同じ地域に関係する人物
- パーヴェル・ブロンスキー (1941年没)
- ワレンチン・ガブリロフ (2003年没)
- ニコライ・ポリカールポフ (1944年没)
- ニコライ・バソフ (2001年没)
- オレグ・マカロフ (宇宙飛行士) (2003年没)