HISTORICAL PERSON · 1850年没

ロバート・ピール

保守党を率いて首相を2度務めた英国の政治家。金本位制への移行を主導し、穀物法廃止後は自由貿易を掲げるピール派を興した。

生涯
1850年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター)
出生地
イギリス連邦(ラムズボトム)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ロバート・ピールは、1788年にランカシャーのベリーで生まれたイギリスの政治家である。第2代準男爵で、保守党を率いて首相を2度務めた。父ロバート・ピールは産業革命初期のイギリスで最も巨大な紡績工場の経営者であり、1790年に庶民院議員となり、1800年に準男爵の称号を与えられた人物である。ピールは長男で、最上流の中産階級に生まれ、名門ハーロー校からオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進むという、一流の貴族的教育を受けた。1808年の卒業試験では、数学と古典の両方で首席の成績をとったという。

1809年、父が買収した腐敗選挙区のアイルランドの選挙区から、トーリー党の候補者として出馬して庶民院議員に初当選した。1810年に陸軍・植民地省次官となり、1812年にリヴァプール伯爵内閣が成立すると、閣僚として入閣し、1818年まで6年にわたって在職した。この間にアイルランド警察の創設や飢饉対策に尽力した。1819年には正貨兌換の再開を検討する委員会の委員長に就き、金本位制への早期の移行が必要だと結論して庶民院で熱弁をふるい、同年7月に金本位実施条例、通称「1819年ピール条例」の成立にこぎつけた。同じ年にジュリア・フロイドと結婚している。1821年には内務大臣として再入閣し、残虐な死刑方法の廃止や刑務所の環境改善など、更生に主眼を置く改革を進めた。

ピールはトーリー党のなかでは自由主義的な思想を持つ一方、敬虔な国教会の信徒でもあり、カトリック解放には強く反対していた。1828年にウェリントン公爵内閣が成立すると、内務大臣兼庶民院院内総務として入閣した。ところが同年、アイルランドのカトリック議員ダニエル・オコンネルが当選すると、議場に入れなければ暴動の恐れがあるため、カトリックが庶民院議員になれるようにする法案の作成を主導し、1829年3月に提出して翌月に可決させた。これに国教会の信徒が反発し、ピールはオックスフォード大学選挙区の議席を失った。同年には警察法の制定を主導してロンドン警視庁を創設し、近代警察の礎を築いた。このため、イギリスの警察官は「ピーラー」や「ボビー」と呼ばれるようになった。

1830年に父が亡くなり、ピールは準男爵位を継いだ。同年にホイッグ党のグレイ伯爵内閣が成立すると、第一次選挙法改正にピールは反対したが、阻止できなかった。1834年、国王ウィリアム4世がメルバーン子爵を罷免したことで保守党が政権を奪還し、イタリア訪問中だったピールが帰国して第1次ピール内閣を組閣した。選挙区タムワースの有権者に宛てた書簡「タムワース・マニフェスト」は、選挙公約としてのマニフェストの先駆けとされる。しかし1835年にアイルランド国教会の教会税転用問題の採決で敗れ、総辞職した。

その後、ピールは初めは協力的な野党の立場をとったが、やがて対決姿勢を強めた。1841年の総選挙に勝って第2次内閣を率い、ウィリアム・グラッドストンを片腕に自由貿易を推進し、ピール銀行条例を制定した。1846年のジャガイモ飢饉を受けて穀物法を廃止したが、ディズレーリら党内の保護貿易主義者が激しく反発して内閣は総辞職し、保守党は分裂した。ピールは自由貿易派を引き連れてピール派を結成し、1850年7月2日、落馬の負傷がもとで世を去った。

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