HISTORICAL PERSON · 790年代没

ティソン・デツェン

吐蕃の王。安史の乱に乗じて763年に長安を占領し、支配領域を最大に広げた。サムイェー寺の大伽藍を建立して779年に仏教を国教とし、「三人の聖なる父祖王」の一人に数えられた。

生涯
790年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ティソン・デツェンは、古代チベットの王朝である吐蕃の王(在位755年または756年〜797年または798年)である。742年に、37代国王ティデ・ツクツェンの次男として生まれた。母はナナム氏族のマンポジェシティンである。在位中に吐蕃の支配領域は最大に達し、仏教文化も大きく発展した。後世にはソンツェン・ガンポ、ティツク・デツェン(レルパツェン)とともに「三人の聖なる父祖王」、あるいは「三人の法王」の一人に数えられた。

13歳で王位に就いた。成長すると、内相や将軍らの協力を得て、父を暗殺した宰相たちを討った。唐で755年から安史の乱が続くと、これに乗じて青海周辺を占領し、762年に唐と和約を結んだ。しかし吐蕃軍はなお東へ進み、763年10月に長安を占領した。無血で入城した吐蕃軍は改元と大赦を布告し、広武王を唐の新たな皇帝に擁立した。入城から2週間後、吐蕃軍は長安の「士女工匠」を連れて帰国し、その途上の商業都市で略奪を行ったという。

779年に唐で徳宗が即位すると、捕虜の返還が行われ、吐蕃の求めに応じて唐から仏僧が派遣された。783年には唐蕃会盟と呼ばれる和平条約が結ばれ、以後は唐への軍事行動は消極的になった。翌784年に唐の節度使朱泚が反乱を起こすと、吐蕃は鎮圧のため援軍を送った。ところが唐が協力の対価を支払わなかったため、軍部が不満を抱いて和平は破られ、西域に進出した吐蕃軍は敦煌を占領した。789年にはビシュバリクとホータンを、790年には亀茲の安西都護府を攻略し、支配領域はアム川やフェルガナ方面にまで広がった。しかしアッバース朝に阻まれ、それ以上は拡大できなかった。最盛期の領域は、西はギルギットとバルチスタン、東は雲南と四川に及び、東北部は河西回廊を含んだ。インドやベンガルからの使節がチベットを訪れ、吐蕃は中央アジア、北インド、アフガニスタン、イランへつながる交易路を確保した。

仏教との関わりも深い。幼いころ、仏教の台頭を恐れた土着のボン教徒によって廃仏が行われたが、20歳になった762年に王は仏教の国教化を宣言した。ネパールで仏教を学んでいたバー氏族のセルナンの仲介で、インドのナーランダ僧院の長老シャーンタラクシタを招き、教えを受けた。775年にサムイェー寺の大伽藍が起工され、12年の工事を経て完成した。地鎮にあたったタントラ行者パドマサンバヴァ(蓮華生)は、後世のチベットの民衆や行者に強い影響を与えた。779年にはシャーンタラクシタがインドから12人の僧を呼び寄せ、6人のチベット人に具足戒を授けた。サンスクリットや漢語の仏典がチベット語に訳され、後のチベット大蔵経の原型になったという。791年に皇后が敦煌の禅僧摩訶衍に帰依すると、王は事態を重く見て、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラをインドから招いた。792年から794年にかけてサムイェー寺で行われた宗論でカマラシーラが摩訶衍を破ると、王はインド系仏教こそ正統だと宣言した。唐と対立していたため、中国系の仏教徒は追放された。

晩年には、妻ツェパン・サと、もう一人の妻ポヨン・サ・ギャルモツンの不仲を憂い、ポヨン・サを次子ムネ・ツェンポの妻として与えたが、ツェパン・サの憎しみはかえって強まった。797年または798年、競馬の場で没した。チョンギェ村の王家の墓群で最大となる、一辺180メートルの三層のピラミッド状の墓が築かれた。死後、吐蕃は徐々に衰えていった。

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