伝記
マリー・タッソーは1761年12月1日、フランスのストラスブールにマリー・グロシュルツとして生まれた。軍人だった父ジョセフは七年戦争で戦死しており、その時期はマリーが生まれるちょうど2か月前とされる。母は娘を連れてスイスのベルンへ移り、ドイツ出身の医師フィリップ・クルティウスのもとで家政婦として働き始めた。クルティウスは蝋による造形に優れ、はじめは解剖模型を作っていたが、のちに蝋人形の制作を手がけるようになる。マリーは1838年の『回想録』で彼を「伯父」と呼んでいる。クルティウスは1765年にパリへ移り、国王ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人の蝋人形を作った。その鋳型は現存する最初期のものとされる。1767年に6歳のマリーと母がパリへ呼び寄せられた。
クルティウスの蝋人形展は1770年に初めて開かれて好評を博し、1776年にパレ・ロワイヤルへ移った。1782年にはタンプル大通りで、のちの「恐怖の部屋」の原型といえる「大盗賊の洞窟」を開いている。マリーは彼から蝋細工を教わり、手伝ううちに才能を示した。最初の作品は、ヴォルテール像(1777年)ともルソー像(1778年)ともいわれる。同じころにベンジャミン・フランクリンの像も作った。回想録によれば、1780年ごろからルイ16世の妹エリザベートに造形を教え、約8年間ヴェルサイユに暮らしたというが、これは本人の語りに基づく話である。革命の2日前の1789年7月12日の行進には、クルティウスが作ったネッケルとオルレアン公の蝋の首が加わっていた。
回想録によると、マリーは王党派の疑いで逮捕され、牢でのちのナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと同じ房にいた。処刑のために髪を剃られていたが、蝋細工の腕を買われて助かり、ギロチンの犠牲者のデスマスクを作る仕事を命じられたという。その中には友人もいたとされ、ルイ16世やマリー・アントワネット、マラーらのデスマスクを手がけたと伝わる。のちにロンドンの館に設けた「恐怖の部屋」は、この体験に通じるものだった。1794年にクルティウスが57歳で没すると、蝋人形のコレクションはマリーに遺された。翌1795年、34歳のマリーは25歳の土木技師フランソワ・タッソーと結婚し、1女2男をもうけたが、娘は夭折した。
1802年、4歳の長男ジョセフを連れてイギリスへ渡り、母と夫、2歳の次男フランソワはパリに残った。夫は賭け事を好み、マリー自身も展示のための借金を抱え、政情不安で展示できない人形も多かったからである。ロンドンのライシーアム劇場での興行は好評だったが、ナポレオン戦争で帰国できなくなり、コレクションとともにスコットランド、イングランド、アイルランドを巡る長い地方巡業に出た。1808年には興行主との不利な契約を切り、夫と離婚して自分の会社を立ち上げた。以後フランスに帰ることはなく、母とも夫とも再会しなかった。次男は1821年か1822年にイギリスへ渡り、兄とともに母を支えた。約30年の巡業を終えてロンドンに戻ったのは1833年で、1835年にベーカー街へ常設の蝋人形館を開いた。70歳代半ばのことで、以後15年間ここで活動した。1842年に自分の蝋人形を作り、それは今もマダム・タッソー館の入口に展示されている。館はロンドンの重要な観光名所となり、アムステルダム、ベルリン、香港、ニューヨーク、上海などに分館がある。1850年4月16日、ロンドンで88歳で没した。
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