HISTORICAL PERSON · 1849年没

ドリー・マディソン

第4代米大統領マディソンの夫人。豪華な夜会や機知ある接待で夫の人気を支え、就任式に立ち会った最初のファーストレディとされる。

生涯
1849年没
死亡地
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)
出生地
アメリカ合衆国(ギルフォード郡)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)

伝記

ドリー・ペイン・トッド・マディソンは、第4代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンの夫人である。1768年5月20日にノースカロライナ植民地ギルフォード郡で、クエーカー教徒のジョン・ペインとメアリー・コールズ・ペインの長女として生まれた。1769年に一家はバージニアに戻り、ドリーは少女時代の多くをそこで農場の暮らしの中で過ごした。クエーカーの教えは厳格で、父ジョンは奴隷制を否定する教えにもとづいて所有していた奴隷を解放した。1783年に一家はクエーカー教徒の町フィラデルフィアに移ったが、父が始めた洗濯用の糊の製造は失敗し、集会から追放された。父は1792年10月に亡くなった。

ドリーは1790年1月7日、21歳でクエーカー教徒の弁護士ジョン・トッドと結婚し、二人の息子をもうけた。ところが1793年10月14日、黄熱病の流行で夫と下の息子が同じ日に亡くなった。25歳の子連れの未亡人には多くの男性が言い寄り、その一人に上院議員アーロン・バーもいたという。ドリーが選んだのは、すでに42歳で小柄なことから「リトル・ジェミー」と呼ばれた下院議員ジェームズ・マディソンで、1794年9月15日に二度目の結婚をした。二人の結婚を盛んに勧めたのは遠縁にあたるマーサ・ワシントンで、ワシントン大統領もマディソンを将来有望な男だと言って後押しした。クエーカー教徒以外の男と再婚したため、ドリーは教会から破門されたが、これを機に華やかな衣装を着て豪華なパーティーを開くようになり、地味と言われた夫にも好影響を与えたという。

1801年にマディソンがジェファーソン政権の国務長官になると夫妻はワシントンに移り、男やもめのジェファーソンのため、ドリーがファーストレディの代役を務めることが多かった。人の顔と名前をすぐに覚え、公平で陽気に人々をもてなし、政治には口出ししないようにしたという。招待客は家柄や財産より、その人のウィットや魅力、能力を重んじて選んだ。1809年3月4日にマディソンが大統領に就任すると正式にファーストレディとなり、夫の就任式に立ち会った最初のファーストレディでもある。その人気は、夫が1808年と1812年の大統領選挙に勝つうえで一役買ったと言われる。

1812年に始まった米英戦争のさなかの1814年8月24日、イギリス軍がワシントンに迫った。夫は軍を率いてバージニアにおり、ドリーは最後までホワイトハウスに残って貴重品の避難を急いだ。ギルバート・スチュアートが描いたワシントンの肖像画を持ち出したとされ、この愛国的な行為は後世まで語り継がれた。ただし、当時15歳でマディソンの家事使用人だった人物が1865年の回想録で、持ち出したのは庭師と門番だったと述べて否定しており、英語版の記事は奴隷のポール・ジェニングスに指示したと伝える。ホワイトハウスは外壁を残して内部が焼け落ち、夫妻は1年以上仮住まいをした。

マディソンが退任した1817年にモントピリアの邸宅へ戻り、賓客を迎え続けた。1836年に夫を亡くし、翌1837年にワシントンへ戻ると、議会は彼女のために特別席を設けた。前の夫との息子ペインは博打と借金を重ね、ドリーは邸宅を売って借金を支払い、議会はマディソンが制憲議会で書いた覚書などの文書を買い上げて彼女を助けた。それでも月に一度はパーティーを開き、話題の中心であり続けた。1849年7月12日、81歳で亡くなり、葬儀でテイラー大統領が彼女を「第一級の女性」と称えたことが、ファーストレディという呼び名の最初の例として伝わるが、当時の書面の記録は残っていない。

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