HISTORICAL PERSON · 1849年没

エドガー・アラン・ポー

アメリカの小説家・詩人・評論家で、文筆だけで身を立てようとした最初の著名な作家。「アッシャー家の崩壊」「黒猫」や、世界初の推理小説といわれる「モルグ街の殺人」、詩「大鴉」で知られる。

生涯
1849年没
死亡地
アメリカ合衆国(メリーランド州 / ボルティモア)
出生地
アメリカ合衆国(ボストン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メリーランド州)

伝記

エドガー・アラン・ポーは、1809年にマサチューセッツ州ボストンで、ロンドン出身の女優エリザベスと俳優デイヴィッド・ポーの子として生まれた。父方の祖父は独立戦争で活躍して少佐となり、私財で独立軍の食料を賄ったことから「ポー将軍」と呼ばれた人物である。しかし巡業に忙しい両親は子を育てる余裕がなく、1810年に父が突如失踪し、母も貧困の中で結核にかかって1811年12月に世を去った。残された三人の子は別々に引き取られ、エドガーは両親と親交のあったリッチモンドの商人ジョン・アランの家に入った。子のなかったアラン夫妻、とりわけ夫人の望みによる養子で、「エドガー・アラン・ポー」の名はこのとき与えられたが、正式な養子縁組の手続きは行われていなかった。

1815年、一家は事業拡大のためイギリスに渡り、ポーはスコットランドやロンドンで学校生活を送った。1820年にアランの事業の不振が明らかになって帰国し、リッチモンドで古典やフランス語を学び、詩作もこの頃に始めた。1826年にはトマス・ジェファーソンが設立したばかりのヴァージニア大学に入り、多くの言語と古典、ドイツ文学に親しんだ。ところが婚約していた少女エルマイラへの手紙は父親に破り捨てられ、彼女は別の男に嫁ぐことになった。さらに義父からの送金が遅れて生活が苦しくなり、賭博で負けて負債が2000ドルに及んだ。アランは生活費の借金は返したが賭博の負けの返済は拒み、ポーは大学を去った。

1827年に家を出てボストンに向かい、偽名と偽りの年齢で陸軍に入隊する。同年、匿名で第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出したが、反響はなかった。特務曹長まで昇進したものの早期除隊を望み、1829年に養母フランセスが亡くなったのを機に、アランはウェスト・ポイント陸軍士官学校への入学を許した。第二詩集も刊行できたが、1830年に入学した士官学校では詩も小説も読むことを禁じられた。義父の再婚と婚外子の問題で口論となって勘当され、遺産相続の望みを失ったポーは、1831年に意図的な怠業で軍法会議にかけられ、放校となった。同年、士官学生の寄付で第三詩集『ポー詩集』が出たが、評判は芳しくなかった。

その後は文筆で身を立てるべく、ボルティモアの叔母マライア・クレムの家に身を寄せて短編を書き始めた。1832年に雑誌『サタデー・クオリア』に「メッツェンガーシュタイン」が載り、「壜の中の手記」は懸賞で最優秀作となって賞金50ドルを得た。審査員のジョン・P・ケネディの斡旋でリッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を載せ、のちその主筆編集者に迎えられた。従妹ヴァージニア・クレムと結婚したが、飲酒の悪癖によるトラブルは絶えず、いくつもの出版社を渡り歩いた。

「アッシャー家の崩壊」「黒猫」「黄金虫」などの短編や、1845年の詩「大鴉」で名を高めた一方、生活はほぼ常に貧窮の中にあった。1847年に妻を結核で失い、その2年後の1849年10月7日、ポー自身も謎めいた死を遂げた。「モルグ街の殺人」の探偵デュパンは後の推理小説の探偵の原型となり、ポーは近代推理小説の開祖とみなされている。作品はまずヨーロッパで評価され、ボードレールの翻訳はフランス象徴派の文学観に大きく寄与した。冒険譚『アーサー・ゴードン・ピムの物語』はヴェルヌらSF作家にも影響を与えたという。

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