伝記
ジョージ・スチーブンソンは、1781年6月9日にイングランド北東部ノーサンバーランド州のウィラムで生まれた土木・機械技術者である。両親は読み書きができず、父ロバートは低賃金の炭鉱機関夫だったため、子どもを学校にやる余裕はなく、ジョージは父の助手をしながら技術を身につけた。17歳でニューバーンの炭鉱の機関夫となり、18歳まで無学だったが、教育の価値は理解しており、働きながら夜間学校で読み書きと算数を学んだ。1801年にブラックカラートン炭鉱で制動手となり、翌年フランシス・ヘンダーソンと結婚した。収入を補うため靴や時計の修理も請け負っていた。
1803年に息子ロバートが生まれ、一家はキリングワース近郊のウェストムーアに移った。しかし生まれた娘は数週間で亡くなり、1806年には妻も結核で世を去った。スチーブンソンはスコットランドへ出稼ぎに出たが、父が炭鉱事故で失明したとの知らせで数か月後に戻り、姉エリノアが息子の面倒を見るため同居した。1811年、キリングワースの炭鉱でポンプが故障し、その修理を成功させたことで技師に昇進し、付近の炭鉱の機械を任されて蒸気機関に精通していった。1815年には炭鉱の爆発事故を防ぐ安全灯の実験を始め、試行錯誤の末に小さな穴から空気を取り入れるランプを考案した。同じ時期にハンフリー・デービーもデービー灯を王立協会に示しており、スチーブンソンは盗用を疑われたが、地元の委員会は独自の発明と認めた。1833年には庶民院の委員会も、安全灯の発明に等しい権利があると裁定した。
蒸気機関車の世界初の実動機はリチャード・トレビシックのものだが、スチーブンソンは1814年、石炭輸送用の機関車を設計し、プロイセンの軍人ブリュッヒャーにちなんで名付けて、7月25日に初走行を成功させた。時速6.4キロメートルで坂を上り、30トンの石炭を運べたという。鋳鉄製の線路が機関車の重さに耐えられない問題には、車輪を増やして荷重を分散するなどの工夫で取り組んだ。1820年にはヘットン炭鉱からサンダーランドまで13キロメートルの鉄道建設を任され、畜力をまったく使わない世界初の鉄道となった。
1821年に議会を通ったストックトン・アンド・ダーリントン鉄道では、社長となったピーズと会って馬車鉄道の計画を蒸気機関車に改めさせ、息子ロバートらと機関車製造会社も共同で創業した。1825年9月27日の開通日には、自ら運転するロコモーション号が80トンの石炭を牽引して約15キロメートルを2時間で走り、客車も連結されて世界初の蒸気鉄道による旅客輸送となった。このとき採用した1,435ミリメートルの軌間が、のちに世界の標準軌となる。
続くリバプール・アンド・マンチェスター鉄道では、底なしの泥炭沼チャット・モスに木の枝などを敷いて線路を浮かべるように通した。1829年10月のレインヒル・トライアルには息子ロバートと設計したロケット号で臨んで優勝し、最高時速40キロメートルで40トンの貨物を牽引した。1830年9月15日の開通式ではウェリントン公ら多くの要人が集まったが、議員ハスキッソンがロケット号に脚を轢かれて亡くなる事故も起きた。それでも鉄道は大成功を収め、スチーブンソンは名を高めて各地の鉄道から招かれた。1848年8月12日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クリステン・ケプケ (1848年没)
- Mah Seref Han (1848年没)
- ジャウマ・バルメス (1848年没)
- カロリーネ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセル (1848年没)
- ジャン=バティスト・デブレ (1848年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョー・スペンス (1966年没)
- ローレンス・スティーヴン・ラウリー (1976年没)
- ヴィクター・キャヴェンディッシュ (第9代デヴォンシャー公爵) (1938年没)
- ジョセフ・ピックフォード (1782年没)
- ジョージ・ターナー (画家) (1910年没)