伝記
フェリックス・メンデルスゾーン(正式にはヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ)は、1809年2月3日に生まれ、1847年11月4日に没したドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニストである。ドイツ北西部の都市ハンブルクで、富裕な銀行家アブラハムの息子として生まれた。祖父はカントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーン、姉のファニーも名ピアニストで、女性作曲家の先駆者であった。4人兄弟の2番目にあたり、姉は迫害の矢面に立って気難しくなっていく弟にとって、何よりの心の友であり理解者だったという。
1811年、父の銀行がナポレオンの大陸封鎖令を破ろうとしたことへの報復を恐れて、一家はベルリンへ移った。両親は画家や音楽家、科学者らを自宅のサロンに招き、子どもたちに最高の教育を受けさせようとした。一家はアブラハムの代でルーテル派に改宗しており、フェリックスは7歳の1816年に洗礼を受け、1822年には一家の姓として「バルトルディ」が公式に採用された。彼自身はこの名を使いたがらなかったが、父の手前、二重姓を名乗った。敬虔なキリスト教徒でありながら、文化的背景にはユダヤ的な影響が強く、自分をユダヤ人と意識していたという。
幼い頃から神童として知られ、6歳で母からピアノを学び始め、パリではマリー・ビゴーに師事した。ベルリンでは対位法をカール・フリードリヒ・ツェルターに学び、これが後の経歴に重要な影響を与えた。9歳ごろに初めて公開の場で演奏し、12歳から14歳にかけて12曲の弦楽のための交響曲を書いた。13歳のピアノ四重奏曲第1番が最初の出版作品で、16歳の弦楽八重奏曲は力量を示した最初の作品とされる。1826年には、シェイクスピアの戯曲による『夏の夜の夢』序曲を書いた。この曲は演奏会用序曲の最初期の例で、舞台劇を伴わず文学的主題を想起させる形式は、後のロマン派で人気のジャンルとなった。音楽以外も幅広く学び、1826年から1829年にはベルリン大学でヘーゲルの美学などの講義に出席している。1821年には、ツェルターの紹介で72歳のゲーテをヴァイマルに訪ね、2週間ほど滞在している。
1829年3月11日、彼はバッハの死後初めてとなる『マタイ受難曲』の公開演奏を、ベルリン・ジングアカデミーで自ら指揮して行った。会場に入りきれない人が千人も出る大成功で、10日後に第2回も開かれた。1833年にデュッセルドルフ交響楽団、1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、1841年にはプロイセン王に招かれてベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任した。1843年にはライプツィヒ音楽院を開校して院長となり、ロベルト・シューマンが教授に招かれた。
1847年5月、訪英の途上で姉ファニーの死を知り、悲嘆のあまり神経障害を起こした。一時は回復したが、11月3日に意識を失い、翌日ライプツィヒで世を去った。38歳であった。代表作には「ヴァイオリン協奏曲」『フィンガルの洞窟』「無言歌集」などがあり、1842年には『夏の夜の夢』の劇付随音楽も作曲して、有名な「結婚行進曲」を含めた。没後の1850年にはワーグナーが論文『音楽におけるユダヤ性』で彼の芸術性を否定し、1892年にはゲヴァントハウス前に記念像が建てられたが、1936年末にナチスの将校がその撤去を命じた。ライプツィヒ市長ゲルデラーは抗議して再建を進め、翌年3月に辞職した。没後は反ユダヤ主義のあおりで貢献が過小評価されたが、今日では再評価が進んでいる。
同じ年に亡くなった人物
- アレクセイ・ヴェネツィアーノフ (1847年没)
- フランス・マイケル・ザクリクソン・フランツェーン (1847年没)
- ジュール・ポール・バンジャマン・ドゥルセール (1847年没)
- ファニー・メンデルスゾーン (1847年没)
- Jeanne Genevieve Labrosse (1847年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヴァレンティン・ヴァイゲル (1588年没)
- ギュンター・ラミン (1956年没)
- ゲオルク・ハインリヒ・メッテニウス (1866年没)