HISTORICAL PERSON · 1847年没

マリア・ルイーザ (パルマ女公)

オーストリア皇帝の長女として生まれ、1810年にナポレオン1世の皇后となった。のちパルマ女公として1814年から1847年まで同地を治めた。

生涯
1847年没
死亡地
イタリア共和国(パルマ県 / パルマ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
イタリア共和国(パルマ県)

伝記

マリア・ルイーザは、1791年12月12日にウィーンで生まれ、1847年12月17日に没したパルマ女公(在位1814年〜1847年)である。神聖ローマ皇帝フランツ2世(後のオーストリア皇帝フランツ1世)と、その二度目の妃マリア・テレジアの長女で、本名をマリア・ルドヴィカという。フランス皇帝ナポレオン1世の皇后としては、マリー=ルイーズの名で知られる。幼い頃にナポレオンの侵略でシェーンブルン宮殿を二度追われ、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられて、その名を付けた人形をいじめながら育ったという。

ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚したと知ると、次に妃となる人に同情し、それが自分でないよう願うと友人への手紙に書いた。ところがナポレオンがポーランド滞在中にマリア・ヴァレフスカを懐妊させたのを契機に名家との婚姻を熱望するようになり、白羽の矢が立ったのが彼女であった。結婚せねばならなくなったと聞かされたときは泣き続けたという。1810年4月1日にルーヴル宮殿の礼拝堂で挙式して皇后となったが、共に暮らしてみると夫は自分にとても優しく、次第に心を許して愛するようになった。後には、ウィーンでは自分が不安の中で暮らしていると思っているだろうが事実は違う、むしろナポレオンのほうが自分を怖がっているのではないかと、友人に書き送っている。社交的だったジョゼフィーヌと違い、私室に入れるのは女官長ら限られた者だけで、服も宝石もほとんど求めなかったため、前皇后の時代に儲けた商人たちには評判が悪かった。

1811年3月20日、大変な難産の末に男子(ナポレオン2世、ローマ王)を出産した。母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師に告げられたナポレオンは、ためらわず母を救えと言ったという。しかし1812年のロシア遠征の失敗、1813年のライプツィヒの戦いの大敗を経て、帝国は包囲網に追い込まれていく。夫の不在中に摂政となった彼女は、テュイルリー宮殿での議論に黙って耳を傾けた。投票ではパリに留まることに決まったが、ナポレオンの兄ジョゼフが、敗北の際は皇后とローマ王を敵の手に渡さずランブイエへ移せという皇帝の声明を読み上げた。彼女は反対したものの、1814年3月29日にローマ王と共に馬車でパリを発ち、ランブイエから、さらにロワール川寄りのブロワ城へ移った。

4月8日にナポレオンの退位を知ると、一度は夫のもとへ向かおうとした。だが、オルレアンに着くと、まず父に会ってエルバ島での夫の待遇改善と、息子のためのトスカーナ大公国を求めたいと手紙で伝えた。フランツ1世はそれを聞き入れず、彼女をあくまで一時的にナポレオンへ嫁がせたに過ぎないと考え、パルマ公国の統治権を与えることを考えていた。やがて父と再会してオーストリアへ帰国した彼女は、ローマ教皇庁から結婚は無効だと宣告され、ナポレオンにポーランド人の愛人がいると知らされて動揺した。保養地エクス=レ=バンでは、監視役として同行したナイペルク伯と親しくなり、秋の日に嵐を避けた宿で男女の関係を持ったという。1815年2月にナポレオンがエルバ島を脱出しても、何があっても行かないと返事すら書かなかった。同年6月18日、ウィーン会議でパルマの統治が決まり、息子の継承は認められなかった。翌1816年3月7日、ナイペルク伯と共にパルマへ旅立った。

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