伝記
ルポ2世は、歴史上知られている3人目のヴァスコニア(ガスコーニュ)公で、ラテン語でドゥクス・ヴァスコヌムまたはプリンケプスと呼ばれた称号を帯びた。769年の記録に初めて現れ、778年に没した。出自や系統については学術的な議論が続いている。
民族的にはバスク人であったとされるが、フランク人やガロ・ローマ人(アクィタニア人)だったとする説もある。ルポという名は「狼」を意味し、バスク語ではオツォアにあたる。中世初期のバスク人の居住域に広く見られた男性名で、姓としても使われた。彼はピピン3世が768年に任命した統治者だったとも、住民によって公に選ばれたともいわれる。
769年、フランク王のカール1世(のちのカール大帝)とカールマンに対するアクィタニア人の最後の反乱が鎮圧され、反乱の指導者であるアクィタニア公ウナール(フナルド)は、ヴァスコニアのルポのもとへ逃れた。ルポはそれまでウナールの同盟者であり、ガスコーニュの兵を貸し与えていた。だがフランク王たちの怒りを自らに招くことは望まなかったとされ、ウナールを妻とともにカールに引き渡したとも伝えられる。そして自らの領地について臣従の礼をとり、カールの宗主権を認めた。
領土の範囲は分かっていない。769年以降にアクィタニア全土を支配したともいわれるが、信憑性は低い。ヴァスコニアはアジャンに接し、北の境はガロンヌ川だったとみられる。ボルドーはカロリング宮廷が任命した伯が治め、ルポの領土ではなかった。南のピレネー山脈にまで力が及んだかどうかも定かでないが、ピレネーの向こうのバスク人もフランク王国の宗主権下にあったと考えられている。アインハルトがロンスヴォーの戦いにおけるバスク人の裏切りに言及していることから、この地域もルポの領域に含まれた可能性がある。一部の歴史家は、ローランへの伝説的な待ち伏せにルポが関わっていたと考えている。
ルポはおそらく778年に死去した。それ以前・以後のアクィタニア公やヴァスコニア公との関係は不明である。ただ、父称にもとづいて子孫をたどる説によれば、サンシュ、スガン、サンチュール、ガルサンドの4人の息子がいた。ガルサンドを除く3人はいずれもガスコーニュを治めたとされ、ガルサンドは819年にトゥールーズ伯ベランジェとの戦いで戦死した。ほかにアダルリックという息子がいて、トゥールーズ伯トルソーの時代に活動したとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ローラン (シャルルマーニュ伝説) (778年)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・デュパルク (1933年没)
- オデ・ド・フォア・ド・ロートレック (1528年没)
- ラウール・クタール (2016年没)
- エンリケ2世 (ナバラ王) (1555年没)
- レオン・デュフール (1865年没)