伝記
アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・シュレーゲルは、1767年9月8日に生まれ、1845年5月12日に没したドイツの文学者であり、翻訳家、文献学者、評論家である。多くの言語に通じ、特にシェイクスピアの翻訳で知られる。弟フリードリヒとともにイェーナ・ロマン派の中心となり、インド哲学を研究して、ヨーロッパへの東洋思想の移入にも功績があった。
ハノーファー選帝侯領の首都ハノーファーで、ルター派の牧師ヨーハン・アドルフ・シュレーゲルの子として生まれた。1772年に弟フリードリヒが生まれ、二人はシュレーゲル兄弟と呼ばれる。ハノーファーのギムナジウムとゲッティンゲン大学で学んだ。初めは神学を学んだが、古典学者ハイネのもとで徹底した文献学の訓練を受け、詩人ビュルガーの友人となり、ダンテやペトラルカ、シェイクスピアを熱心に研究した。ここでカロリーネや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトと知り合った。1790年にはゲッティンゲンに弟が来た。二人はヘルダーやカントらの影響を受けた。1791年から1795年まで、アムステルダムの銀行家の息子の家庭教師を務めた。
1796年、帰国してまもなく、シラーの招きを受けてイェーナに居を定めた。同年、医師ベーマーの未亡人カロリーネと結婚した。彼女は夫の文筆を助け、書簡が死後に出版されて、ドイツの書簡作家として名を残した。イェーナでは、シラーの雑誌『ホーレン』や『ムーゼンアルマナハ』に寄稿し、地元の学術新聞にも約300の記事を書き、ダンテやシェイクスピアの翻訳も手がけた。これらによって文学的な名声を得て、1798年にイェーナ大学の員外教授に就任した。彼の家はロマン派の知的な拠点となり、フィヒテやシェリング、ティーク、ノヴァーリスらが訪れた。ティークの娘ドロテーアらの監督のもと、シェイクスピアの翻訳にあたり、その訳はとても詩的だった。1797年に弟とともにシラーと決別し、1798年から翌年に弟と雑誌『アテネーウム』を主宰して、ロマン派の機関誌とした。ドイツのシェイクスピアと呼ばれた劇作家コッツェブーとも論争した。兄弟の評論は、活力と新鮮さで、新しいロマン派批評の指導者として尊敬された。1802年1月にヴァイマルで上演された戯曲『イオン』は、ゲーテの支持を得たが失敗に終わった。
1801年にベルリンに出て、芸術と文学を講義した。翌年にギリシアの詩人エウリピデスの様式を模した悲劇『イオン』を出版し、劇詩のあり方をめぐる議論を呼んだ。スペインの劇作家カルデロンの翻訳や、イタリア、スペイン、ポルトガルの叙情詩の翻訳集『詩の花束』(1804年)も刊行した。1804年初頭にスタール夫人と知り合って、その子供たちの家庭教師となり、スイスやイタリア、フランスを旅して、夫人の文学活動の助言者となった。1807年にフランス語で書いた論考で、ロマン主義の立場からフランス古典主義を批判して、注目を集めた。1808年にウィーンで行った劇芸術と文学についての講義は、多くのヨーロッパ言語に訳された。1810年に、フランス文学の敵としてスイスからの退去を命じられた。1813年から翌年にスウェーデンの王太子ベルナドットの秘書官を務め、貴族の身分を回復した。スタール夫人の没後、1818年にボン大学のインド学教授となり、『バガヴァッド・ギーター』のラテン語訳などで、ドイツのサンスクリット研究の流れをつくった。サンスクリット専用の印刷所も設けた。教え子に詩人ハインリヒ・ハイネがいる。1845年にボンで没した。
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