伝記
ベルテル・トルバルセンは、デンマークの彫刻家である。1770年11月19日に生まれ、1844年3月24日に没した。日本では古くからトルバルセンの表記が用いられているが、原音はトーヴァルセンである。生涯の大半の1797年から1838年をイタリアで過ごし、国際的な名声を得た。
コペンハーゲンの貧しい家に生まれた。通説では1770年だが、1768年生まれとする資料もある。父はデンマークに移民したアイスランド人で、造船所で大型船の装飾を彫る木彫師だった。母はユトランドの農家出身である。出生証明書や洗礼の記録は見つかっておらず、残るのは1787年の堅信礼の記録だけである。家は貧しく、父には飲酒の習慣があって、仕事が伸びなかった。少年時代の学校教育は分かっておらず、全て家庭で教わったのかもしれない。字を書くのは得意にならず、芸術家に期待される教養もあまり身につけなかった。父から木彫の手ほどきを受けた。
1781年、友人の助けにより、11歳でデンマーク王立美術院に入学した。はじめは製図工として学び、1786年からは塑像の学校に移った。夜は父の木彫を手伝った。教授には、ヨハネス・ヴィーデヴェルトやニコライ・アビルゴールがおり、のちの新古典主義の様式に影響したとみられる。在学中に数々の賞を得て、1793年には聖ペテロが足の不自由な乞食を癒す浮き彫りで、銀賞から金賞まで多くの賞を取った。その結果、王の奨学金を得てローマで学業を完成させることになった。8月30日にコペンハーゲンを出航し、1797年1月にパレルモに着き、ナポリで1か月学んだのち、3月8日にローマに入った。生年が記録されていなかったため、この日を終生ローマの誕生日として祝った。
ローマではスペイン広場の前のブーティ館に住み、バルベリーニ宮の厩に工房を構えた。デンマーク出身の考古学者ゲオルク・ツォエガに目をかけられ、古代美術の鑑賞眼を養うように導かれた。同じデンマーク出身の画家カルステンスからは古典主義を学んだ。最初の成功は、1801年に完成したイアーソーン像の模型で、当時最も人気のあった彫刻家アントニオ・カノーヴァに絶賛された。しかし売れ行きは遅く、奨学金も尽きて帰国を考えたが、1803年に富裕なイギリスの美術愛好家トーマス・ホープが、大理石での制作を注文した。この時から成功が確実になり、以後16年間イタリアを離れなかった。1804年には『ヘリコン山のムーサたちの踊り』や『アモールとプシュケ』などの初期の重要作を完成させた。1805年には工房を拡大して助手を雇い、大理石を彫るのは助手に任せ、自分は下絵と仕上げに専念した。この年デンマーク王立美術院の正会員に選ばれ、ボローニャの美術アカデミーの名誉会員にもなった。
1808年にバイエルン王ルートヴィヒ1世からアドニス像の依頼を受け、1832年に完成させた。本人の手だけで彫った数少ない大理石像の一つで、古代ギリシアの理想に最も近いとされる。非カトリックの身でありながら、ローマ教皇ピウス7世の墓碑像を制作して称賛された。サン・ピエトロ大聖堂に置かれ、非カトリックによる唯一の作品である。ほかに『ニコラウス・コペルニクス像』や『ユゼフ・ポニャトフスキ像』、ミュンヘンのマクシミリアン1世像などがある。1818年に病に倒れ、1820年に再びデンマークを離れて、ローマに戻った。1838年に帰国して国民的英雄として迎えられた。1844年3月24日、親友アンデルセンと食事をした後、コペンハーゲン王立劇場で心臓発作により急死した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ドルトン (1844年没)
- マリー・アレル (1844年没)
- Claude Tillier (1844年没)
- ハドソン・ロー (1844年没)
- メルチョール・ムスキス (1844年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・サートマン (1917年没)
- マリー・フォン・ヘッセン=カッセル (1767-1852) (1852年没)
- ヴァルデマー (デンマーク王子) (1939年没)
- ヘンリー・ハンセン (1985年没)
- フリッツ・クラウゼン (1947年没)