HISTORICAL PERSON · 1842年没

クレメンス・ブレンターノ

ドイツ・ロマン主義の最盛期を代表する詩人・小説家。義弟の文学者アルニムと親交が深かった。

生涯
1842年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / アシャッフェンブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(コブレンツ=エーレンブライトシュテイン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

クレメンス・マリア・ブレンターノは、ドイツの文学者・小説家・詩人である。ドイツ・ロマン主義の最盛期を代表する人物で、同時代の文学者で義弟にあたるアヒム・フォン・アルニムとの親交も深かった。1778年9月9日、コブレンツに生まれた。父はロンバルディア地方出身の商人ペーター・ブレンターノ、母はゲーテが若いころに崇拝した女性マクシミリアーネ・フォン・ラ・ロッシュである。姉妹には、アルニムと結婚し、自身も作家であるベッティーナや、法学者サヴィニーと結婚したクニグンデがいる。カトリックの洗礼を受け、フランクフルトやコブレンツで育った。

商業教育の修得には失敗し、1797年にハレ大学で山岳研究を、1798年からイェーナ大学で医学を学びつつ、文学に傾倒するようになった。イェーナでは、ヴァイマルの古典主義を代表するヴィーラント、ヘルダー、ゲーテらに学び、若いロマン主義者のフリードリヒ・シュレーゲル、フィヒテ、ティークらとも出会った。1801年からゲッティンゲン大学で哲学を学び、アルニムと親交を深めて、ライン地方への旅行を計画した。作家ゾフィー・メローと結婚したのち、1804年にハイデルベルクへ発ち、アルニムとともに『隠者新聞』と、民謡集『少年の魔法の角笛』を出版した。1806年に妻ゾフィーが3度目の流産で死去した。翌年、17歳になるかならぬアウグステ・ブースマンと再婚したが、1814年には離婚している。

長旅の後はたびたびベルリンに滞在し、1810年からクライストの『ベルリン夕刊紙』の仕事を手伝った。1803年に出会ったグリム兄弟に、彼らが収集していた童話集の出版を薦めたが、預かった草稿を紛失したため、『グリム童話』の出版を遅らせたことがある。この草稿は20世紀に入ってエーレンベルク修道院で発見された。1811年にはキリスト教的ドイツ談話会の発起人に名を連ね、ベルリンの文学者のグループにも溶け込んでいた。

しかし、しだいに重い抑うつに苦しむようになり、1817年以降は神秘主義にのめり込んだ。懺悔して、世俗の詩人であることも捨て去ったとされ、その著作には、キリスト教的なテーマが多く取り上げられる。その中には、デュルメンのアンナ・カタリナ・エンメリックのような、聖痕を持つ修道女の幻視の描写も含まれる。1801年の長編小説は2巻から成り、第2巻にローレライ伝説の物語を含む。1804年に喜劇『ポンセ・デ・レオン』を発表し、1833年に『我らが主イエス・キリストの苦い受難』、1838年に説話『ゴッケル、ヒンケルとガッケライア』を書いた。1829年からフランクフルトに住み、1833年にミュンヘンに移住した。1842年、アシャッフェンブルクで死去し、63歳であった。ハイデルベルク市は、彼を記念して1993年にクレメンス・ブレンターノ賞を設けている。

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