伝記
ルイージ・ケルビーニは、イタリア出身のフランスの作曲家・音楽教師である。本名はマリア・ルイージ・カルロ・ゼノービオ・サルヴァトーレ・ケルビーニ。1760年9月にフィレンツェで生まれた。誕生日を9月14日とするものもあるが、洗礼の記録などから8日が正しいとする説もある。6歳のとき、チェンバロの奏者でアンサンブルの指揮者だった父バルトロメオから音楽教育を受け、神童とされ、13歳までに宗教曲をいくつか作曲した。1780年にトスカーナ大公から奨学金を得て、ボローニャとミラノで音楽を学んだ。初期の作品は、ジョメッリやトラエッタ、サッキーニの影響を受けていた。1783年11月に、最初の喜劇的作品をヴェネツィアの劇場で上演した。
イタリアの伝統に窮屈さを感じ、実験を望んで、1785年にロンドンに行き、キングズ・シアターのために作品を書いた。同年、友人のヴァイオリン奏者ヴィオッティとパリを訪れ、マリー・アントワネットとパリの社交界に紹介された。マルモンテルの台本によるオペラ『デモフォン』の作曲を依頼され、1788年にパリに定住した。この作品は王立音楽アカデミーで好評を得た。ヴィオッティの助けで、1789年にテュイルリー宮のムシュー劇場の指揮者に任じられた。この職で、無数の台本を読み、自分の気質にあったものを選ぶ機会を得た。作風は独創性と大胆さを増し、最初の大きな成功は、ポーランドを舞台にしたオペラ『ロドイスカ』(1791年)で、真に迫ったヒロイズムが称賛された。続いて、最も有名な作品『メデア』(1797年)と『二日間』(1800年)が書かれた。財政的な安定を得て、1794年にアンヌ・セシル・トゥレットと結婚し、3人の子をもうけた。
しかし、大歌劇場から締め出されていたため、作品を小さな劇場で上演せざるを得なかった。理想主義や独立不羈の気骨、作品の厳粛で高邁な性質のために、当時の人気作曲家にはなり得なかったが、1795年には音楽院の視察官に任命された。フランス革命の余波は生涯彼に影響し、元貴族との関係を隠し、政府の職を求めた。ナポレオンは彼を複雑すぎるとみたが、ケルビーニは十年以上、毎年少なくとも一曲の愛国的作品を書いた。1805年にウィーンに招かれ、オペラを作曲して指揮を依頼された。1806年に上演された『ファニスカ』は、ハイドンやベートーヴェンの熱心な支持を得た。ベートーヴェンはケルビーニを、当時の最もすぐれたオペラ作曲家と見なした。
劇場での不運を嘆いて、しだいに宗教音楽へ向かい、7つのミサ曲と2つのレクイエムなど、多数の小品を作曲した。王政復古のもとで「王室音楽監督」に任命された。1815年にロンドンのフィルハーモニック協会から依嘱されて、交響曲や序曲などを作曲し、上演のためにロンドンへ渡って指揮し、国際的な名声を得た。ルイ16世の処刑を悼んで作曲した『レクイエム ハ短調』(1816年)は、大成功を収め、ベートーヴェンやシューマン、ブラームスに絶賛された。1822年にパリ音楽院の院長に就任し、1835年に弟子ジャック・アレヴィの補佐を得て『対位法とフーガ講座』を出版した。この本はショパンやシューマン夫妻も用いたほどであった。
1820年代にロッシーニの華々しいオペラがパリに上陸すると、古典的な厳粛さをそなえたケルビーニのオペラは時代遅れになった。1842年3月15日、81歳でパリに没した。墓はペール・ラシェーズ墓地にあり、ショパンの墓の4つ左隣である。
同じ年に亡くなった人物
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- エイモス・イートン (1842年没)
- フェルディナン・フィリップ (オルレアン公) (1842年没)
- ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ (1842年没)
- Jean-Nicolas Bouilly (1842年没)
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