伝記
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは、ドイツの画家である。1774年9月5日にグライフスヴァルトで生まれ、1840年5月7日にドレスデンで没した。フィリップ・オットー・ルンゲとともに、ドイツのロマン主義絵画を代表する。宗教的含意をふくむ風景画によって知られる。
石鹸と蝋燭を作る商人アドルフ・ゴットリープ・フリードリヒと、妻ゾフィー・ドロテーアの子として、当時スウェーデン領だったドイツ最北端のフォアポンメルンのグライフスヴァルトに生まれた。九人きょうだいの六番目であった。両親はともに、現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州のノイブランデンブルクの出身であった。プロテスタントの信仰に従って育てられた。幼いころ、家族の死が相次ぎ、死について深く考えるようになった。7歳のときの1781年に母が亡くなり、翌年には妹エリーザベトが天然痘で亡くなった。1787年、13歳のとき、川でスケートをしていて氷が割れて溺れ、助けようとした一歳年下の弟クリストファーが溺死した。フリードリヒは、このことで長年自分を責め続け、うつ病を患って、自殺を図ったこともあった。1791年には妹マリアも亡くなった。これらのことが画風や人格に大きく影響したと言われる。
16歳のころ、グライフスヴァルト大学の素描教師クイストルプに教わり、故郷の風景への熱意を伝えられたらしい。1794年にコペンハーゲンの美術アカデミーに入学し、1798年まで学んだ。石膏像を描き、画家というよりまず素描家として養われた。1798年に故郷に戻ると、詩人で愛国者のアルントとの友情を新たにし、同年の秋にドイツのロマン主義運動の中心であったドレスデンに移った。そこで生涯を過ごし、ルンゲ、ダール、ケルスティングら画家、詩人のティークやクライスト、哲学者で博物学者のシューベルトと交わった。1799年にドレスデン美術アカデミー展に風景の素描を出品した。
1805年には、ゲーテ主催のヴァイマルの美術展に課題外の作品を出品して受賞した。1807年に油彩での本格的な制作を始め、ボヘミアを旅行した。1810年、『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』がプロイセン王室に買い上げられ、ベルリン美術アカデミーの在外会員になった。1814年のナポレオン退位の際には愛国的な作品をドレスデンの展覧会に出品し、1816年にドレスデン美術アカデミーの会員になった。1818年には、19歳年下のカロリーネと結婚し、妻と帰郷した。同年、『雲海の上の旅人』を描いている。
作品は、自然の風景、それも高みや遥か彼方を見据えるものが多く、廃墟となった僧院、墓地、古代の巨石墓、槲の木などもよく題材になる。無人の荒涼とした風景を描いた、宗教的崇高さと静寂感に満ちた作品が多い。人が描かれるときは、鑑賞者とともに風景を見つめるため、背後からしか描かれないのが常である。例外として幼児のみがこちらを向く。『氷の海』のように、自然の冷酷さと死のイメージを重ねた作品も多い。ナポレオン戦争の時代には、禁止されていた伝統的な民族衣装の人物を描くなど、ナショナリズムの形成にも寄与したが、過剰な愛国主義や神秘主義的な傾向は、批判も浴びた。
1833年ごろから批判的な批評が増え、作品は晩年にかえりみられなくなった。1835年に脳卒中で倒れ、麻痺が残ったため、以降はセピアインクの線画を中心に描いた。1840年に亡くなり、死後は忘れられたが、1906年のベルリンの展覧会を機に再評価が進み、1920年代には表現主義者に、のちにはシュルレアリストにも注目された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・アデア (ケンタッキー州知事) (1840年没)
- ジョン・コックリル (1840年没)
- ヨセフ・リットロウ (1840年没)
- ピエール=ジャン・ロビケ (1840年没)
- ベーラム (タギー) (1840年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・モルワイデ (1825年没)
- フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王) (1827年没)
- エルンスト・ヴィンディシュ (1918年没)
- Maria Kubasch (1976年没)
- シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス (1750年没)