伝記
ピユスティは、紀元前18世紀、あるいは17世紀にかけて、ハットゥシャの王であったとされる人物である。ハットゥシャは後にヒッタイトの都となる町だが、この時代にはヒッタイト人の王国の首都ではなく、先住のハッティ人の都であった。ピユスティの名は、アニッタ文書と呼ばれる文書にのみ知られている。この文書は、クッシャラの王、のちにネシャの王となったアニッタの言葉として語られ、後代の写しがボアズキョイで見つかっている。
アニッタは先王ピタナの子で、治世の初めに父の拡張政策を引き継ぎ、クズルウルマク川を越えて進出した。このときアナトリアの諸国の同盟と対決することになり、その年代は紀元前1729年とされる。同盟を率いたのが、ハッティの王ピユスティと、黒海に面したザルプワの王フッジヤであった。それより約1世紀前の紀元前1833年には、この二つの都市がカネシュを破り、その神像を奪ったとされる。ピユスティらは、かつての勝利から今度も勝てると考えて挑んだともされるが、今回の結果は逆になった。
アニッタ文書によれば、ピユスティは少なくとも2度アニッタと戦っている。部分的に壊れた文書のため、最初の戦いでピユスティを破ったと明記されているわけではない。二度目の戦いは、シャラムパの町の近くで行われ、ピユスティとその援軍は敗れた。その後、ハットゥシャは包囲され、飢饉とも干ばつともいわれる事情で守りが弱ったところを、アニッタが夜のうちに襲って攻め落とした。アニッタは町を徹底的に破壊し、後の者がここに住まぬよう呪いをかけた。同盟の一翼であったフッジヤは捕らえられ、連れ去られたという。
ピユスティ自身の最期は分かっていない。その王朝もおそらく彼で終わったとみられる。初期のヒッタイト王たちの時代がアニッタとの戦いにきわめて近く、後の文書にピユスティの名が再び現れることも、後代の王がその子孫を名乗ることもないからである。ピユスティは、ヒッタイト以前の王のうち、名前と若干の事績がはっきり伝わる唯一の君主とされる。
ハットゥシャでは、ピユスティの頃までアッシリア商人の交易が続いていたと推測されている。商人が使った商館の区域が受けた破壊は、考古学者によってアニッタが町を壊した時期と結びつけられている。その後も人が住み続けたかどうかは明らかでない。しかし紀元前17世紀には町は再びヒッタイトの手に渡り、ハットゥシリ1世によってヒッタイトの中心都市とされた。後の王たちは、破壊された都を一から建て直さなければならなかった。