HISTORICAL PERSON · 744年没

賀知章

唐の詩人・書家。草書を得意とし、酒席で即興の詩文を大書する奔放さから杜甫の『飲中八仙歌』で筆頭に挙げられた。

生涯
744年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

賀知章は、中国唐代の官僚で、詩人、書家でもある。659年ごろに生まれ、744年ごろに没したとされる。字は季真、または維摩といい、石窓とも号した。会稽郡永興県、現在の浙江省蕭山の出身で、若いころに越州山陰、現在の紹興に移り住んだという。漢族の出である。

若いころから詩文で名を知られ、すでに都でも評判だったとされる。695年に科挙に合格し、首席だったと伝えられ、浙江で初めて科挙の首席となった人物とされる。進士となったのち、はじめ国子監の四門博士に任じられ、さらに太常博士に進んだ。722年、政治家で詩人の張説が麗正殿の書物の校訂を命じられると、賀知章を院に入れて『文纂』と『六典』を共同で編ませることを求めたが、この事業は完成しなかった。玄宗に仕え、開元年間には礼部侍郎となり、集賢院学士を加えられた。725年には工部侍郎に移り、集賢院学士を兼ねたとされる。そのほか皇太子の侍読などを務め、のち秘書監を授けられた。738年には再び皇太子の侍読となり、銀青光禄大夫の位を与えられ、正式に秘書監に任じられたという。これにちなみ、賀監の呼び名で知られた。

性格は率直で、おおらかで、拘束を嫌い、よく語ったといわれる。酒を好み、酒席で感興の赴くままに詩文をつくり、紙のあるのに任せて大きく書いた。草書で名高い張旭や、李白と交わり、酒を飲みながら詩をつくることが多かった。こうしたところから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では、八仙の筆頭に挙げられている。また「仙宗十友」の一人にも数えられる。晩年はとくに奇行が目立ち、自らを「四明狂客」「秘書外監」と称した。

744年、病気で心が乱れたとして、道士として故郷に帰ることを願い出た。玄宗はこれを許し、賀知章は山陰に戻った。「道士の邸」に住み、「千秋観」で暮らして、楽しみのために小さな亭を築き、紙に書くのはわずか数十字だったという。この間に『回郷偶書』二首がつくられ、広く伝えられて親しまれた。まもなく86歳で亡くなった。758年には粛宗が礼部尚書を追贈した。

書は草書を得意とし、書跡は珍重された。愛好家が紙と墨を提供して書かせたといい、作品は広く伝わり、宝物として扱われた。唐の厳格さと晋の書家の流麗さを兼ね備え、唐末から宋にかけての書風に大きな影響を与えたとされる。現存する書に、草書で『孝経』の全文を書いた巻がある。署名はないが、末尾に建隆二年(961年)冬の識語があり、古来賀知章の真跡と伝えられる。江戸時代中期に日本に舶載されて近衛家熙の所蔵となり、明治初めに皇室に献納されて御物となり、現在は三の丸尚蔵館にある。書風は王羲之風の重量感があり、切れ味も鋭く、筆づかいは力強いうえに、秀麗で洒脱である。『隔日不面帖』『東陽帖』『敬和帖』も書蹟として知られる。詩も一流で、清新で独創的な作風をもち、とくに絶句に優れた。祭祀の詩や公的な詩を除けば、風景を描き、感情を述べる作品が多い。『詠柳』は、柳の細い葉を切りそろえたのは二月の春風がはさみのようだからだ、と詠む七言絶句である。『回郷偶書』は、若くして故郷を離れ老いて帰ると、子どもたちは見知らぬ客として笑いながら「どこから来たの」と尋ねた、という内容である。五言絶句の『題袁氏別業』などもある。作品の多くは失われたが、『詠柳』と『回郷偶書』は名高く、長く歌い継がれた。『全唐詩』には賀知章の詩が20首収められている。

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