HISTORICAL PERSON · 1837年没

グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)

スウェーデン王。フランス革命を嫌って反動政策をとり、ナポレオンへの協力も拒み続けた。ロシアとの戦争に敗れ、1809年に王位を失った。

生涯
1837年没
死亡地
スイス連邦(ザンクト・ガレン州 / ザンクト・ガレン)
出生地
スウェーデン王国(ストックホルム宮殿)
出典
世界地図
スイス連邦(ザンクト・ガレン州)

伝記

グスタフ4世アドルフは、1778年11月1日にストックホルムで生まれ、1837年2月7日に没したスウェーデン・ホルシュタイン=ゴットルプ王朝第3代の国王である。在位は1792年から1809年まで。国王グスタフ3世と、デンマーク王フレゼリク5世の娘である王妃ソフィア・マグダレーナの息子として生まれた。スウェーデンの君主として最後にフィンランドを統治した人物でもある。

幼い頃は女官の養育を受け、4歳からは父と、自由主義的なローゼンスタインのもとで育てられ、まじめで誠実な性格になった。1792年3月に父が暗殺されると、13歳で即位し、叔父のセーデルマンランド公カールが摂政となった。1796年8月、摂政はサンクトペテルブルクを訪れて、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の孫娘アレクサンドラ・パヴロヴナとの婚約を交渉し、婚約式の日付まで定めた。しかしアレクサンドラが結婚後もギリシャ正教会から改宗しないことにグスタフ4世が拒否したため、婚約はなされなかった。同じ年に成年に達し、11月に親政を始めた。摂政の側近だった不人気な大臣ロイターホルムをすぐに罷免して人気を得た。1797年10月31日、バーデン大公世子の娘フリーデリケと結婚した。この結婚はロシアとの戦争の引き金になりかねなかったが、ロシア皇帝パーヴェル1世も彼もフランス共和国を嫌っていたため、戦争は回避された。

フランス革命を忌み嫌い、極端な反動政策をとり、議会を招集しなくて済むように戴冠式を数年延ばしたほどだった。しかし1798年と1799年の不作や、フランス革命戦争の長期化で財政が悪化し、1800年3月に議会の招集を余儀なくされ、4月3日に戴冠式が行われた。1804年にフランスでアンギャン公が処刑されると、12月3日に率先して第三次対仏大同盟に加入した。陸軍を大陸に派遣すると約束したが、プロイセン王との争いでスウェーデン軍はポメラニアから出発できなかった。1805年12月にようやく6千人の軍勢で行軍を始めたが、同盟軍はすでにウルムとアウステルリッツで敗れていた。ナポレオンがスウェーデンを味方に引き入れようとしても、全て拒否したため、ポメラニアはフランスに占領された。1807年のティルジットの和約で、ロシア皇帝は大陸封鎖令へ参加するよう誘ったが、拒否し、同時にフィンランドの守備も増強しなかったため、1808年から1809年のロシア・スウェーデン戦争でフィンランドを失った。

1808年までに人気を完全に失い、1809年3月に軍人たちのクーデターが起こった。ゲオルク・アドレルスパッレがカールスタードで蜂起して首都へ進軍し、13日に陰謀者たちが宮殿に押し入って国王を逮捕し、一家とともにグリプスホルム城に連行した。叔父のカールが臨時政府の長を務めることに同意し、議会もクーデターを承認した。3月29日に退位し、息子に王位を譲ろうとしたが、5月10日に議会は、国王だけでなくその子女も王位を放棄したと宣言した。6月5日に叔父がカール13世として即位し、12月に一家はドイツへ追放された。

追放後は、初めゴットルプ伯、ついでグスタフソン大佐の偽名を使い、いくつかの著作を書いた。子供たちと離別させられ、妻とも1812年に離縁し、スイスのザンクト・ガレンで孤独な生活を送った末、1837年2月7日に没した。19世紀末のオスカル2世の治世に、遺体はスウェーデンに戻され、ストックホルム郊外に埋葬された。

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