HISTORICAL PERSON · 1837年没

ウィリアム4世 (イギリス王)

イギリスのハノーヴァー朝国王・ハノーファー王(在位1830年〜1837年)。ジョージ4世の弟。13歳で海軍に入隊して月光の海戦に参加し、青年期の海軍勤務から「船乗り王」の愛称で親しまれた。

生涯
1837年没
死亡地
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド / ウィンザー城)
出生地
イギリス連邦(バッキンガム宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド)

伝記

ウィリアム4世は、1765年8月21日に生まれ、1837年6月20日に没したイギリスのハノーヴァー朝の国王であり、ハノーファー王国の国王を兼ねた。在位は1830年6月26日から没年まで。ジョージ3世と王妃シャーロットの三男で、先王ジョージ4世の弟にあたる。青年時代を海軍で過ごしたため、船乗り王の愛称で親しまれた。

バッキンガム・ハウスで生まれ、洗礼でウィリアム・ヘンリーと名付けられた。長兄ジョージとは仲が悪かった。1779年、13歳で士官候補生として海軍に入り、王家の出であることを隠して一般の士官候補生とともに訓練を受け、弱音を吐かなかったという。1780年にロドニー提督の艦隊でサン・ビセンテ岬の海戦に参加し、スペイン艦隊の撃破を体験した。戦後、素性が知られて市民に大歓迎された。アメリカ独立戦争ではニューヨークで勤務し、イギリスの君主として初めてアメリカを訪れた人物となった。1783年に帰国すると、次兄フレデリックとドイツとイタリアを巡り、1786年に軍艦の艦長となった。カナダの土を踏んだ最初の君主にもなった。その年の暮れにはネルソン提督の指揮下で西インド諸島で勤務した。1789年にクラレンス公爵などに叙された。1790年に海軍少将に進級したが、これは後方勤務に遠ざける敬遠であったとされる。

女優ドロシー・ジョーダンと、1791年から20年余り夫婦同様に暮らし、10人の庶子を儲けた。子らには公位から取ったフィッツクラレンスの姓を与えた。しかし正式な跡継ぎを求められると、1811年に絶縁合意書を交わし、手切れ金と養育費は払うが、ドロシーは二度と舞台に立たず、子が13歳になれば引き渡すという、一方的に有利な内容であった。ドロシーは1816年にパリで失意のうちに亡くなった。1818年にザクセン=マイニンゲン公の娘アデレードと結婚したが、2人の娘はいずれも夭折した。建築家ナッシュにクラレンス・ハウスを建てさせた。同年、次兄ヨーク公が亡くなって王位継承者となったが、長兄とは相変わらず仲が悪かった。海軍の最高位を名目上与えられたのに職権を行使して迷惑がられ、ナヴァリノ海戦のときは、海軍本部の承認なく現地のコドリントン提督を激励した。翌年には海軍本部と対立し、艦隊を率いて行き先を告げずに10日間も海上に留まったため、8月に解任された。

1830年に兄の後を継いで即位した。戴冠式などどうでもよいと言い出し、華美にしないことと節約を条件に渋々挙行を受け入れた。侍従も連れずに気軽に市中へ出かけ、市民と握手をして人気を集めた。兄王が遺した道楽の削減に取りかかり、王室の馬を半分に、ヨットを5隻から2隻に減らし、150匹のペットをロンドン動物学会に寄贈した。即位時はウェリントン公爵のトーリー党政権で、選挙法改正問題に揺れ、1830年11月に総辞職した。後任のホイッグ党のグレイ伯爵は友人でもあり、救貧法の継続、児童労働の制限、奴隷労働の廃止などの改革を進めた。特に1832年の選挙制度改革は重要で、国王も貴族院の抵抗を排するため貴族の新規叙爵にも同意し、成立に大きな役割を果たした。1834年にグレイ伯爵が退くと、メルバーン子爵が首相になったが、院内総務の人事をめぐって対立し、11月に国王は議会の意思に反して更迭した。これは国王が議会の意思に反して首相を任命した最後の例である。後継のピール内閣が翌年4月に総辞職し、メルバーンが再び首相に就いた。晩年は、姪ヴィクトリアの母ケント公妃に不信を抱き、摂政になることに強い抵抗を示した。

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