伝記
テウドアルド(テオダルドとも)は、フランク王国の宮宰である。生年は706年とも708年ごろともいわれ、741年に没した。父はネウストリア宮宰グリモアルド2世、祖父はフランク王国の実力者であった宮宰ピピン2世(エルスタルのピピン)で、祖母はプレクトルードである。母はフリースラント王ラドボドの娘テウデシンダとされ、ピピン2世にとっては嫡出の長男の子にあたる。母方ではフリースラント王の孫にあたる。
出生については見解が分かれる。『フランク人の歴史の書』は、テウドアルドを庶子とし、その誕生を708年、すなわちピピン2世の長男ドロゴが死んだ年のこととする。一方で、グリモアルド2世の嫡子であったが、のちに庶子だと主張されるようになったともいう。母をテウデシンダとする説は、名前の類似から唱えられたもので、その可能性は極めて低いとする見方もある。
714年、父グリモアルド2世がフリース人に暗殺され、続けてピピン2世も没した。祖父はテウドアルドを全所領と宮宰職の継承者に指名しており、当時まだ6歳ほどだった孫は、祖母プレクトルードの摂政のもと、三王国の宮宰となった。プレクトルードは、ピピン2世の庶子カール・マルテルを幽閉して、嫡孫を後継者に推した。ところが715年、ネウストリア人が王となったキルペリク2世のもとで、ラガンフリドを宮宰に立てて、アウストラシアの支配から離れようとした。プレクトルードがこれを認めなかったため、ラガンフリドはコンピエーニュの森でプレクトルードの軍を破り、残された財宝を奪った。同年9月のコンピエーニュの戦いで敗れたテウドアルドはケルンへ戻った。ラガンフリドはフリース人の公ラドボドと同盟してアウストラシアに攻め入ったが、そのころカール・マルテルが支持者を集め、ヴァンシーでネウストリア勢を破った。こうして715年にはアウストラシア宮宰の地位をカール・マルテルが、ネウストリア宮宰の地位をラガンフリドが握ることになった。カールはプレクトルードとテウドアルドに権力を放棄させ、プレクトルードの財産を没収してケルンの修道院に入れた。716年にプレクトルードがキルペリク2世とラガンフリドに降伏し、その短い天下は終わった。このときテウドアルドはわずか10歳だった。
その後の生涯ははっきりしない。『メス年報』の記述からは早くに没したとも読めるが、723年にカール・マルテルがユトレヒトに行った寄進の証人に、カールの「甥」にあたるティエドルドの名がある。これを元の宮宰とみれば、717年以降も生きていたことになり、年報の記述は、後世の著者が717年より後の記録を見つけられず、死んだと思い込んだためかもしれない。従兄のアルヌルフが723年に企てた陰謀には、加わらなかったようである。ただし、ピピン2世は長男の子であるアルヌルフではなくテウドアルドを後継に選んでいたため、従兄弟どうしは不仲だったのかもしれない。
中世には、後継者争いで敗れた親族は殺されるのが普通だったが、カール・マルテルはテウドアルドを殺さず、保護した。741年にカール・マルテルが死ぬと、その息子ピピンとカルロマンが「テウデバルド」という人物を殺させたという。ほかのテウデバルドは該当しないため、おそらくテウドアルドであり、二人は従兄弟の野心を恐れたのかもしれない。テウドアルドは35歳で死去し、おそらく暗殺されたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- レオーン3世 (741年没)
- グレゴリウス3世 (ローマ教皇) (741年没)
- カール・マルテル (741年没)
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