伝記
マリア・レティツィア・ボナパルトは、ナポレオン・ボナパルトの母で、フランス皇太后である。結婚前の姓はラモリノという。1750年8月24日にコルシカ島のアジャクシオで生まれ、1836年2月2日にローマで没した。
ジェノヴァ共和国の大尉ジョヴァンニ・ジェロニモ・ラモリノの娘で、末子にあたる。女であったため教育は宗教と芸術が中心だったが、家の財産の管理や島の政治に深い関心を示したという。美貌と聡明さで知られ、14歳で、4歳年上の将来有望な弁護士カルロ・マリア・ブオナパルテと、1764年6月2日に結婚した。政略結婚だったが夫婦は初めから仲がよく、成功の道を歩む夫は若い妻に助言を求め、その意見をよく考慮した。5男3女を得たが、長子は夭折したので、三男のナポレオンは、成人した子としては次男にあたる。子にはナポリ王、のちスペイン王のジョゼフ、ホラント王ルイ、ヴェストファーレン王ジェロームらがいる。コルシカ独立戦争が始まると、女性でありながら兵士として参加し、1769年にフランス軍が島に上陸したときには、ナポレオンを身ごもりながら、夫の抵抗運動の旅に付き添った。パオリ主催の宴では、島で最も美しい婦人として上座に着いたという。
1785年2月24日、夫が38歳で亡くなり、一家の中心となった。以後は再婚せず、母親として苦労しながら暮らし、最小限の収入で、徹底した倹約を家族に課し、主な出費は幼い子の教育だけであった。独立戦争後にボナパルト家が親フランス派に転向したため、1792年にコルシカを追われ、家族全員でマルセイユに移住して、貧しいながらも子供たちを育てあげた。事実上の長男ジョセフが、富豪クラリー家の長女マリー・ジュリーと結婚するころから、暮らし向きがよくなり始めた。ナポレオンが1796年に結婚したジョゼフィーヌ・ド・ボアルネのことは、気に入らなかった。結婚式には出ず、他の子にも出席させず、祝いの言葉もかけなかったとされる。
名誉、誇り、約束を非常に重んじる強気な女性で、ナポレオンが幼い頃には、どんなことがあっても名誉と約束だけは重んじるよう、毎日言い聞かせた。嘘をついたり約束を破ったりした時には、体罰を含む厳しい指導を、容赦なく行ったという。ナポレオンが皇帝を目指すことには反対し、1804年12月2日の戴冠式には出席しなかった。皇太后の称号を得ても、他の家族のように贅沢をせず、質素に暮らして金銭を倹約し、宮廷での生活を拒んだ。皇帝になってからも小言を言い続け、たまりかねたナポレオンが、余はフランス皇帝なるぞと言うと、私はその皇帝の母なるぞと言い返したという話が伝わる。
第一帝政が崩壊してナポレオンがエルバ島に追放されると、ローマに亡命し、後からエルバ島にかけつけた。それまで貯めた資金で、困窮した元部下や家族を援助した。百日天下ではフランスに戻ったが、失敗すると再びローマに亡命した。その後は実弟のジョゼフ・フェッシュと同じ屋敷で暮らし、晩年は失明したが、頭脳は明晰だった。コルシカ人としての意識が強く、フランスに移り住んでからも終生コルシカ語を使い続けた。1836年、家族に見守られながら、老衰のため86歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- ハインリヒ19世 (ロイス=グライツ侯) (1836年没)
- デイヴィッド・クロケット (1836年没)
- ハインリヒ・アドルフ・シュレーダー (1836年没)
- Isabella Teotochi Albrizzi (1836年没)
同じ地域に関係する人物
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