伝記
アーロン・バー・ジュニアは、アメリカ合衆国の政治家である。1756年2月6日に生まれ、1836年9月14日に没した。ニューヨーク州の民主共和党設立の主要メンバーで、ジョージ・クリントン知事の支援者であり、ジェファーソン大統領の下で第3代副大統領を務めた。それよりも、アレクサンダー・ハミルトンとの決闘と、反逆罪での裁判と罪の免除で有名である。1799年にはバンク・オブ・マンハッタンを設立した。
ニュージャージー植民地のニューアークで、ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)の第2代学長アーロン・バー・シニアの息子として生まれた。母エスターは、有名なカルヴァン主義の神学者ジョナサン・エドワーズの娘であった。はじめ神学を学んだが2年後に諦め、コネチカット州リッチフィールドで、義理の兄弟タッピング・リーヴの手引きにより法律を学び始めた。勉学はアメリカ独立戦争で中断され、ベネディクト・アーノルド、ワシントン、イズラエル・パットナムの下で働いた。
1775年、アーノルドのカナダ遠征軍に加わり、ケベックの戦いの前に、カトリックの司祭に変装して、モントゴメリー将軍にアーノルドの到着を知らせるため、イギリス軍下の危険な旅をした。ケベックからの退却の際には、戦死したモントゴメリーを運ぼうとしたが、置いていかざるを得なかったとされる。この勇気ある行動がワシントンのスタッフへの採用につながったが、ワシントンは必ずしもバーを信頼しなかったという。パットナムはバーをかばい、ロングアイランドからの退却では、警戒行動によって全旅団を敵による捕獲から救った。1777年7月に中佐に昇進して連隊を指揮し、冬のバレーフォージでは宿営地への道の防御についた。1778年6月28日のモンマスの戦いでは、マルコム旅団を指揮したが、イギリス軍の砲撃で兵は10分の1に激減し、バー自身も熱中症に苦しんで、快復できなかった。病気を理由に1779年3月に退役し、再び法律を学んで、1782年にオールバニーで法曹界に入った。翌年イギリス軍の撤退後にニューヨークで弁護士業を始めた。
1782年にセオドシア・バートウ・プレヴォストと結婚した。彼女は、独立戦争中に西インド諸島で戦死した英国陸軍士官の寡婦だった。2人の娘が生まれ、1783年生まれの上の娘セオドシアは、美貌と業績で広く知られるようになった。1833年にイライザ・ジュメルと再婚したが、財産が夫の土地投機で減ったことを悟った彼女と、4か月で別居し、離婚はバーの死去した日に認められた。
ニューヨークの法曹界でのライバルはハミルトンだった。1784年から州議会議員を務め、1789年に州の司法長官に任命された。1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破り、1797年まで連邦上院議員を務めた。タマニー協会を社交クラブから政治組織に変えて後ろ盾とし、ハミルトンより影響力を持つようになった。1796年の大統領選では副大統領候補となり、30票を得たが落選した。1804年の大統領選でジェファーソンの副大統領候補に指名されない見通しとなると、ニューヨーク州知事選に無所属で出馬し、大差で敗れた。知事選でハミルトンが侮辱的な演説をしたことから、バーは決闘を申し込み、1804年7月11日にニュージャージー州ウィホーケンで決闘を行った。胸に銃弾を受けたハミルトンは、翌日死亡した。バーは二つの州で殺人罪で告発されたが、審判はされず、副大統領の任期を全うした。1836年にスタテン島で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フェリペ・サンティアゴ・サラベリー (1836年没)
- ハンス・ゲオルク・ネーゲリ (1836年没)
- レシド・メフメト・パシャ (1836年没)
- アントニーン・レイハ (1836年没)
- クロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リール (1836年没)
同じ地域に関係する人物
- スポルディング・グレイ (2004年没)
- ベニー・レナード (1947年没)
- サム・ジョーンズ (1981年没)
- マーガレット・ブラウン (1932年没)
- ウディ・ガスリー (1967年没)