伝記
シャルル10世は、復古王政のブルボン朝最後のフランス国王で、在位は1824年9月16日から1830年8月2日までである。即位以前は、アルトワ伯と呼ばれた。1757年10月9日に、王太子ルイ・フェルディナンと妻マリー=ジョゼフ・ド・サクスの五男として、ヴェルサイユ宮殿で生まれた。祖父ルイ15世が生まれた日に、アルトワ伯に叙した。1765年に父が、1767年に母が結核で亡くなり、9歳で孤児となって、兄のルイ・オーギュストらとともに養育された。1773年11月、サルデーニャ王女マリー・テレーズと結婚した。この妻は多くの同時代人から醜いとされ、彼は多くの愛人と付き合い、のちにルイーズ・ド・ポラストロンと生涯の愛を続けた。数年のうちに5,600万フランの借金を負い、国に肩代わりさせた。1782年のジブラルタル包囲戦に参戦したが、軍人の道というより、放蕩を防ぐための措置だったとされる。
革命以前は政治にほとんど関わらなかったが、勃発すると王妃マリー・アントワネットとともに宮廷の反革命派を主導した。1789年7月のバスティーユ襲撃の直後、兄ルイ16世に命じられてフランスを脱出し、オーストリア領ネーデルラントを経てトリノに向かった。以後エミグレの指導者として、ヨーロッパ各国の宮廷を回って王党派への支持を集め、1791年にピルニッツ宣言を出させた。1793年にルイ16世が処刑され、1795年にルイ17世が死去すると、ルイ18世として即位を宣言したプロヴァンス伯から、ムッシュの称号を与えられた。ヴァンデの反乱の支援のためにユー島に上陸したが、進軍を拒んで再びイギリスに亡命し、ロンドンやエディンバラのホリールード宮殿などに住んだ。
1814年2月にフランスに戻り、同盟軍がパリに入城した後の4月に入城して、王国総代理官として同盟軍と軍事協約を結んだ。兄ルイ18世の治世には超王党派の指導者となり、1814年憲章に反対した。1820年に次男ベリー公が暗殺されると、宮廷での影響力を強めた。1824年9月に兄が死去してシャルル10世として即位し、1825年にランスで、旧体制のような豪華な戴冠式を行って、王権神授説に基づく統治を示した。政策も反動的で、同年にエミグレへの補償法を定め、革命で領地を没収された人々に、10億フランに上る補償を国庫から払うとした。国民衛兵の閲兵式で野次が飛ぶと、翌日に解散を命じた。これらはヴィレール内閣期に行われ、人気の凋落を招いた。1828年にマルティニャック内閣が自由主義的な政策をとったが、極左と極右に攻撃され、王は融和を諦めて、反動政策と教会強化を主張するポリニャックを首相に任命した。英国のウェリントンは、ジェームズ2世を引き合いに、聖職者政権の成立を批判した。
1830年に代議院の抗議を受けて5月16日に議会を解散したが、選挙は野党の躍進に終わった。7月25日に議会解散、選挙権制限、出版の自由の廃止などを定めた七月勅令を出し、暴動を予想せず、パリの軍を指揮するマルモン元帥にも指示しなかった。パリ市民は七月革命を起こし、王はランブイエに避難して、7月30日に王太子ルイ・アントワーヌに譲位した。ルイ=フィリップが即位を受諾したと知ると、シェルブールから8月16日に船でイギリスに亡命した。以後ホリールード宮殿などヨーロッパ各地を転々とし、1836年11月6日に保養地ゲルツで没した。遺体は遺言に基づきゴリツィア郊外に埋葬され、現在のスロヴェニア領ノヴァ・ゴリツァにある。
同じ年に亡くなった人物
- 丁若鏞 (1836年没)
- スティーブン・オースティン (1836年没)
- エドワード・ターナー・ベネット (1836年没)
- ジェームズ・ミル (1836年没)
- ルイーゼ・フォン・プロイセン (1770-1836) (1836年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・アントワーヌ (アングレーム公) (1844年没)
- ウンベルト・サバ (1957年没)
- シモン・グレゴルチチ (1906年没)
- Ivano Blason (2002年没)
- マリー・テレーズ・ド・モデーヌ (1886年没)