伝記
ウィリアム・ゴドウィンは、イギリスの政治評論家で著作家、小説家であり、功利主義の最初期の提唱者の一人、近代無政府主義の先駆者とされる。1756年3月3日にケンブリッジシャー州ウィズビーチで、カルヴァン派(サンデマン主義)の牧師ジョンとアンの子として生まれ、13人の子の7番目だった。両家とも中流で、母方は裕福だったが、叔父の浪費で財産を失った。父はのちにサフォークやノーフォークに移った。11歳で、ロバート・サンデマンの弟子サミュエル・ニュートンの唯一の弟子となり、その厳しい規律に生涯続く反権威主義を植えつけられた。一方で、合理主義、平等主義、合議による決定を重んじるサンデマン主義の信条は身につけ、のちにキリスト教を捨てても、その根は保った。1771年にニュートンのもとを去り、翌年に父が没すると、母に勧められて学業を続けた。
17歳でホクストンの非国教徒のアカデミーに進み、ロックの心理学、ニュートンの科学的方法、ハチスンの倫理学に触れた。入学時は保守党支持者だったが、アメリカ独立戦争を機にホイッグ派を支持し、スウィフトを読んで共和主義者となった。ルソー、エルヴェシウスらフランスの哲学者の思想にも親しんだ。1778年に卒業して牧師となり、1780年からストウマーケットにいたが、聖餐の運営をめぐる他の牧師との対立から職を辞し、1782年4月にロンドンへ出て、文筆生活に入った。フランス啓蒙思想の百科全書派を紹介して優れたジャーナリストとなった。1783年に匿名で最初の著作『チャタム卿の生涯』を出し、1785年までに3つの小説を書いたが、今では忘れられている。
1793年、フランス革命の直後に、最も成功した著作『政治的正義』が、四つ折り版2冊で、3ギニーの値で売り出された。英国の体制には危険な思想で検閲はあったが、高価な専門書であるため市販され、労働者たちは資金を出し合って購入して読みふけったという。たちまち当時最も有力な社会哲学者として知られ、サウジー、コールリッジ、ワーズワースら青年詩人もむさぼり読んだ。しかし革命の余波が広がり、首相ピットが鎮圧に乗り出すと、第2版以降は政府や財産への攻撃を緩めた。1794年には社会派サスペンスの古典となった小説『ケイレブ・ウィリアムズ』を出した。1797年には、女権論者メアリ・ウルストンクラフトと結婚し、教会で式を挙げた。夫妻は結婚制度の廃止を唱えていたが、生まれてくる子のために論を翻したと言われる。8月30日に娘のメアリ(のちの『フランケンシュタイン』の作者メアリ・シェリー)が生まれ、9月10日にメアリ・ウルストンクラフトは産褥熱で38歳で亡くなった。
1801年に隣人メアリ・ジェーン・クレアモントと再婚した。1805年には子ども向けの本を扱う出版社を開き、事業は妻が経営したが、1822年に倒産した。1832年、一人息子を病で失い、1834年に最後の著書を出版した。1836年4月7日、窮迫のうちに没した。育てた子のうち2人はすでに亡く、2人は海外にいたため、メアリ・シェリーが晩年の世話をした。政府のない社会を理想とし、その手段は理性と説得による合意のみとした。経済学者マルサスは、彼の考えに対して『人口論』を書いたと言われる。
同じ年に亡くなった人物
- エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス (1836年没)
- ジェームズ・ミル (1836年没)
- ウィリアム・ヘンリー (化学者) (1836年没)
- アントニーン・レイハ (1836年没)
- フェルディナント・ライムント (1836年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ・バリー (1865年没)
- ドナルド・ウィニコット (1971年没)
- フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵) (1595年没)
- Raymond Firth (2002年没)
- エドワード4世 (イングランド王) (1483年没)