HISTORICAL PERSON · 737年没

藤原宇合

奈良時代の公卿で、藤原不比等の三男、式家の祖。遣唐副使として入唐し、蝦夷の反乱では持節大将軍として鎮圧、長屋王の変では兵を率いて邸を包囲した。西海道節度使も務め、737年に没した。

生涯
737年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原宇合は、持統天皇8年(694年)に生まれ、天平9年(737年)に没した奈良時代の公卿である。初名は馬養といい、右大臣・藤原不比等の三男にあたる。のちに藤原式家の祖とされた。官位は正三位・参議、勲等は勲二等であった。藤原不比等の子として生まれた。兄に武智麻呂と房前、弟に麻呂がいる。母は蘇我連子の娘の蘇我娼子とされるが、確実ではない。

霊亀2年(716年)8月、第9次遣唐使の副使に任ぜられた(遣唐押使は多治比縣守)。このとき正六位下から二階昇進して従五位下となったが、大使の大伴山守も同じ従五位下で、大使と副使が同位であるのは珍しい。父・不比等の政治力が働いたと想定されている。遣唐使には吉備真備や僧の玄昉も加わっていたとされる。一行は翌年6月から7月頃に入唐して10月に長安に到着し、養老2年(718年)10月に九州へ帰着、翌年正月に復命して正五位上に昇った。この入唐を通じて、馬養から宇合へと改名したという。養老3年(719年)7月には常陸守として安房・上総・下総3国の按察使を兼ねた。養老4年(720年)8月に不比等が亡くなると、翌年正月に四兄弟はそれぞれ大幅に加叙され、宇合は四階進んで正四位上となった。

神亀元年(724年)3月、海道の蝦夷が反乱を起こして陸奥大掾・佐伯児屋麻呂を殺害した。式部卿であった宇合は4月に持節大将軍に任ぜられて遠征し、11月に帰還した。のちの時代には、この遠征が成功しなかったと評価されたともいわれる。この功で翌年正月に従三位・勲二等を受け、公卿に列した。神亀3年(726年)には知造難波宮事となり、後期難波宮造営の責任者を兼ねた。神亀6年(729年)の長屋王の変では、謀反の密告があると直ちに六衛府の兵士を率いて長屋王邸を包囲し、軍事面で主要な役割を果たした。ただし、すでに藤原氏から武智麻呂と房前の2名が議政官となっていたこともあり、このときの参議昇進は見送られた。

天平3年8月、諸官人の推薦による6名もの大量の参議抜擢で、宇合は弟の麻呂とともに参議となった。藤原四兄弟が全員議政官となり、藤原四子政権が確立した。同年11月には畿内副惣管に任ぜられている。天平4年(732年)に地方軍備の整備のため節度使が置かれると西海道節度使として九州に赴任し、軍事行動の手引きとなる「式」を整えた。赴任に際して宇合が作った漢詩は『懐風藻』に、高橋虫麻呂が見送って詠んだ和歌は『万葉集』に残る。約50年後の宝亀11年(780年)にも、大宰府に対し宇合の式に基づいて警固を行うよう勅令が出ており、この式が後世まで活用されたことがうかがえる。天平6年(734年)には正三位に至った。

天平9年(737年)、平城京中に疫病が猛威をふるうなかで、8月5日に四兄弟の最後に亡くなった。享年は44で、同じ疫病で四兄弟は相次いで亡くなった。最終官位は正三位参議式部卿兼大宰帥であった。妻には石上麻呂の娘とされる国盛大刀自(国咸大刀自とも)や、高橋笠朝臣の娘の高橋阿禰娘らがいた。子には長男の広嗣(740年没)、次男の良継(716年-777年)、三男の清成、五男の田麻呂(722年-783年)、八男の百川(732年-779年)、九男の蔵下麻呂(733年-775年)らがおり、六男の綱手は740年に没した。娘たちは藤原魚名や藤原巨勢麻呂らの妻となったとされる。また、太山寺は宇合が建立したと伝わる。

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