伝記
フランツ2世は、1768年2月12日に生まれ、1835年3月2日に没した最後の神聖ローマ皇帝で、在位は1792年から1806年である。神聖ローマ皇帝として退位する前に、初代オーストリア皇帝フランツ1世(在位1804年から1835年)を兼ねて、皇帝の称号を維持した。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世、ボヘミア国王としてはフランティシェク2世である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の当主であった。
トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の長男として、宮廷のあるフィレンツェで生まれた。母はスペイン王女マリア・ルドヴィカ(カルロス3世の五女)である。幸せな幼年期を送ったが、伯父のヨーゼフ2世に成長した子がなく、未来の帝位継承者と見なされ、1784年にウィーンの宮廷へ送られて教育を受けた。伯父は教育を自ら担い、その方式はフィレンツェの寛容な宮廷と対照的に厳格で、「恐れと不快」に基づくものだった。ヨーゼフ2世は、背が低く作法にも遅れがある、母に甘やかされた子にすぎないと書いた。若い大公は自立を促す名目で孤立させられ、伯父を恐れながらも深く敬った。ハンガリーの連隊で軍の生活に順応し、1789年のベオグラード包囲戦にも居合わせた。
1790年に伯父が崩御し、帝位を継いだ父が2年後の1792年3月1日に44歳で崩御したため、24歳で神聖ローマ皇帝に即位した。伯父の崩御の2日前に最初の妃エリーザベトを、翌1791年にその唯一の子の長女ルドヴィカを、さらに父の崩御の2か月半後に母を喪っている。即位したとき、フランス革命が進行中で、即位から間もない1792年4月20日、フランス革命政府がオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発した。翌1793年にルイ16世が処刑されると第一次対仏大同盟が結成されたが、その一方で、1795年のポーランド分割にも関与した。叔母のマリー・アントワネットが1793年に処刑されたときも、フランツは概して無関心だったとされる。
ナポレオン戦争に巻き込まれ、アウステルリッツの戦いで惨敗し、1806年、カール大帝から継承された「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ナポレオンに皇帝位を奪われる前に退位し、形骸化した称号に代わる「オーストリア皇帝」に即位していた。こうして「神聖ローマ皇帝」フランツ2世は「オーストリア皇帝」フランツ1世となり、君主権の及ぶ領域は、ドイツからハプスブルク家領に移った。この新しい称号はナポレオンに承認された。フランツは1809年の敗北後、娘マリー・ルイーゼをナポレオンに嫁がせることを強いられたが、1813年にナポレオンに背いて、ついにこれを破り退位させた。メッテルニヒを登用して、ウィーン会議で失地を回復した。
国家運営をメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、在位が神聖ローマ皇帝時代とオーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民から「善き皇帝フランツ」と称された。他方、ヨーロッパ協調のもとで民族主義や自由主義の動きを抑えたため、晩年は反動的な君主とも見られた。生涯に4度結婚し、4男9女を儲けたが、夭逝した長女を除き、全員が2番目の妃マリア・テレジアとの間の子である。娘マリア・ルドヴィカ(マリー・ルイーゼ)はナポレオン1世の皇后となり、長男フェルディナントは次のオーストリア皇帝となった。1835年に67歳で崩御し、長男が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- トマース・デ・スマラカレギ (1835年没)
- アウグスト (ロイヒテンベルク公) (1835年没)
- フェリシア・ヘマンズ (1835年没)
- フリードリヒ・シュトロマイヤー (1835年没)
- イザベラ・チャルトリスカ (1835年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョセフ・マキシミリアン・ペッツヴァール (1891年没)
- イワン・レーゲン (1947年没)
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1791年没)
- ジーモン・ゼヒター (1867年没)
- ララ・アンデルセン (1972年没)